31 額田王は天智天皇に最後まで仕えた
額田王は天智天皇の葬儀の最後まで仕えたと何度も書きました。まだ若い前には、大海人皇子との間に十市皇女をもうけています。十市皇女は天智天皇の息子大友皇子の妃となりました。つまり、額田王は天智帝に信頼されていたのです。
では、次の歌をどう詠みましょうか。
天智天皇の即位は晩年でした。皇太子時代が長すぎます。斉明帝が崩御しても即位しなかったのは、玉璽が間人皇后の手にあったからからだと述べてきました。
妹の間人皇后が薨去し、母の斉明天皇と陵墓に合葬した後、天智天皇は即位したのです。そうして即位したのに在位は四年間でした。その即位した年の5月、天皇は蒲生野に遊猟し宴を開きました。額田王と大海人皇子はそこで歌を詠みました。
巻一の20番歌と21番歌です。
20 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖ふる
紫草の生える野は標を結って立ち入りができない処なのに、あなたは紫野に行ったり標野に行ったり、そこで袖を振ったりなさって、いいのですか。野守が見ないでしょうか。そんな事をなさって。
21 紫草のにほへる妹をにくくあらば人嬬ゆゑに吾恋ひめやも
紫に染められたような美しいあなた、色あでやかなあなたが好きだからこそ、人妻のあなたに惹かれ恋したりするのではありませんか。
額田王は天武帝の子どもを生みましたが、公の宴の場で歌を作り読み上げたのです。王に答えたのが大海人皇子だったのです。天智天皇の深い信頼があっての作歌であったのです。天智帝は文化的なことに関心がありました。
藤氏『家伝』には「朝廷事なく、遊覧是れ好む。人菜色なく、家余蓄あり。民みな太平の代を称ふ」と書かれているそうです。
天智天皇の御代には文化的なサロンがあったのでしょうか。
「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山の万花の艶(にほひ)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて判(ことわ)る歌」として次の歌が置かれています。天皇の前で平安貴族のように歌を詠み合っていたようです。春と秋のどちらが素晴らしいかを天皇が鎌足に問うたので、額田王が代わりに判定の歌を詠んだのです。
冬こもりしていたものは春が来ると、これまで鳴かなかった鳥も鳴きはじめ、咲かずにいた花も咲いて来る。けれど、山は茂っているので分け入ることもなく、草が深いので草木を取ることもしない。秋山の樹の葉を見ては、紅葉した葉を手にとってはいろいろと思う。青い葉はそのまま置いて嘆く。そこだけが恨めしいけれど、わたしが選ぶのは秋山です。
藤原鎌足は天智八年(669)に没していますから、上の歌は天智帝即位から669年までの短い間に詠まれたのです。これは、万葉集の中の多くの歌のように叙事詩ではありません。宮廷の文化的な行事の歌なのです。額田王は公の場で歌を披露しました。王の宮廷での立場が偲ばれます。あまたの女性の中で教養ある存在だったし、天皇の信頼も深かったのでしょう。額田王は既に40歳近くになっていますが、容色の衰えに勝る深い教養と人望があったのです。
また明日