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古代天皇家と饒速日と天香久山

2017-07-04 16:33:28 | 62古代の神々と万葉集

天香具山と饒速日命と天皇家

前回紹介した三人の天皇御製歌に、天香具山が詠まれていました。さて、天香具山とは如何なる山なのでしょう。香具山は藤原宮の東に位置する山で、万葉集巻一「藤原宮御井の歌」にも『日本の青香久山は日経(ひのたて)の大御門に 春山としみさび立てり』と詠まれています。畝傍山は日の横の大御門、耳成山は背友(そとも北)の大御門、影友(かげとも南)の大御門には吉野山、このように神山が都を守ると歌われているのです。香具山は大王家にとって大事な山だったと云うことです。

他にも、

巻一 「2 とりよろう天の香具山 のぼり立ち…」「28…衣乾したり天の香久山」「13 高山(かぐやま)は畝傍をおしと…」「14 高山(かぐやま)と耳梨山と相しとき…」

巻三「257 天降りつく 天の香具山霞立つ…」「260 天降りつく神の香久山「何時の間も神さびけるか香山(かぐやま)の…」「334 わすれ草我が紐に付く香具山の…」

巻七「いにしえの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山

巻十「1812 久方の天の芳山(かぐやま)この夕べ霞たなびく春立つらしも」

巻十一「2449 香山に雲位たなびきおほほしく相見し子らをのち恋むかも」

そして、「香具山」には天が付きますから、香具山を詠んだ天皇は物部氏の皇統を主張しているのでしょうか。そうです、物部氏です。

「先代旧事本記」の「天神本記」によると、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が東遷される時、三十二人の武将と二十五部の物部(軍隊)とその他の従者を従えてきました。三十二人の防衛の従者は
天香語山命(あまのかごやまのみこと)
天鈿賣命(あまのうずめのみこと)
天太玉命(あまのふとたまのみこと)
天兒屋命(あまのこやねのみこと)
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)
天道根命(あまのみちねのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天椹野命(あまのむくぬのみこと)
天糠戸命(あまのぬかどのみこと)
天明玉命(あまのあかるたまみこと)
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)
天神立命(あまのかむたちのみこと)
天御陰命(あまのみかげのみこと)
天造日女命(あまのみやつこひめのみこと)
天世手命(あまのよてのみこと)
天斗麻彌命(あまのとまみのみこと)
天背男命(あまのせおのみこと)
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)
天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天三降命(あまのみくだりのみこと)
天日神命(あまのひのかみのみこと)
天乳速日命(あまのちはやひのみこと)
天八坂彦命(あまのやさかひこのみこと)
天伊佐布魂命(あまのいさふたまのみこと)
天伊岐志邇保命(あまのいきしにほのみこと)
天活玉命(あまのいくたまのみこと)
天少彦根命(あまのすくなひこねのみこと)
天事湯彦命(あめのことゆひこのみこと)
天表春命(あまのうははるのみこと)
天下春命(あまのしたはるのみこと)
天月神命(あまのつきのかみのみこと)


続いて、五部人、天降りに従った人
天津麻良(あまつまら)、天會蘇(あまつそそ)、天津赤占(あまつあかうら)、富々侶(ほほろ)、天津赤星(あまつあさほし)
更に天降りに従ったミヤツコ(造)
二田造(ふつだのみやつこ)、大庭造(おほばのみやつこ)、舎人造(とねりのみやつこ)、勇蘇造(いそのみやつこ)、坂戸造(さかとのみやつこ)

天津物部ら二十五部の人。兵仗を帯びて天降る
二田物部、當麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、鳥戸(嶋戸)物部、浮田物部、巷宜(そが)物部、足田物部、酒人(さかひと)物部、田尻物部、赤間物部、久米物部、狭竹(さたけ)物部、大豆(まめ)物部、肩野(眉野)物部、物束(はつかし)物部、尋津物部、布都留(ふつる)物部、住跡物部、讃岐三野物部、相槻(なみつき)物部、筑紫聞(つくしのきく)物部、播磨物部、筑紫贄田(つくしのにへた)物部

船長(ふなおさ)舵取りを率いて天降る
天津羽原(あまつはばら)、天津麻良(あまつまら)、天津真浦(あまつまうら)*以下三人の名がない書がある 天津麻占、天都赤麻良

ここまで「天」が並ぶと、あまの〇〇と来れば「饒速日」の関係者だと思いますよね。
ではでは、天智天皇の近江朝の荒れた都を過ぎる時の柿本人麻呂の歌を思い出してみましょう。「畝傍の山の橿原の日知りの御代から」と詠んでいます。橿原で即位したのは、記紀によれば神武天皇です。神武天皇に長髄彦(ながすねひこ)は言いました。
昔、天神の御子が天岩船に乗って天より降られました。櫛玉饒速日尊と云われます。私の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名・長髄媛・鳥見媛と結婚して御子が生まれ、可美真手(うましまで)命といいます。私は饒速日命を君としてお仕えしていました。」

すると、饒速日が大王になっていたのですね。
そして、初代神武天皇から九代開花天皇までの皇后が饒速日の神裔から立てられました。この皇后の皇子が皇太子となり次期の大王となったのです。

さて、饒速日命が祭られているのは、国宝・七支刀が神庫(ほくら)に伝世した石上神宮ですね。ここは物部氏の祖が祭神を祀ったことに始まり、神殿後方の神聖なる禁足地は「大王家の武器庫」だったと考えられています。隣接する布留遺跡から多数の武器が出土したそうです。(埋められていた? 大切な武器を埋めたりしないでしょうね? さびるし傷むし使えなくなると思います。敵を欺くために一時的に埋めて隠したのでしょうか? それとも置き忘れられた? それで後世に出土した?)

さて、石上神宮は」書紀によると「崇神天皇7年(紀元前91年)の創建」とされ、七支刀は日本書紀によれば「神功皇后52年(252年)に記された、百済から献上された七枝刀に該当するとみられています。

でも、百済ができたのは「346年、近肖古王即位」ですから、252年では百済はまだ成立していません。ですから、120年足して七支刀の伝来は372年とされています。それは、七支刀に「泰和年の紀年銘」があるからです。泰和は中国の東晋の年号です。神功皇后の時代は120年足して年代が想定されていますね。

それにしても、なぜ饒速日命の石上神社に七支刀があるのでしょう。饒速日は東遷してきた人です、もちろん九州から。天氏を引き連れて来て長髄彦を服従させ、大王となったのです。七支刀を伝世したという事実と、天の香具山はどのように結びつくのでしょうね。

饒速日についてもっと知りたくなりましたね。

また今度。