人麻呂が偲んだ持統天皇
万葉集・巻九「挽歌」の冒頭の五首
巻九の挽歌の冒頭は『宇治若郎子の宮所』の歌でした。人麻呂歌集に置かれた五首はセットです。一緒に並べたから意味があるのです。
そして、宇治若郎子の運命を有間皇子の運命と重ね、皇子が皇太子だったこと、父王に極位を譲られていたこと、無情にもその命を政敵により奪われたことを伝えたのです。
一首目は寓意のある歌でした。
次が
紀伊国に作る歌四首
黄葉(もみじば)は、故人・亡き人のことです。人麻呂は、他にも『葉』と書いて、葉(もみじば)とも読ませています。
1796・黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも
もみじばのすぎにしこらとたづさはりあそびしいそをみればかなしも
亡くなってしまった愛する人と手を取り合って遊んだ磯を見ると悲しくて仕方ない。あの人は、確かにここに来た。
紀伊国で、愛する人と遊んだとき、その人は独りではなかったのでしょうね。大勢の女官を従えての旅だったということ。
1797・塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し
しおけたつありそにはあれどゆくみずのすぎにしいもがかたみとぞこし
浪が荒くて潮の香り立つ荒磯ではあるけれど、流れ去った水のように鮮やかに亡くなってしまったあの人の形見だからこそ、わたしは此処へ来た。
あの人の形見のこの地で、あの人の霊魂に会い、あの人の意思を確かめる為に、此処に来た。
更に、
塩気立つ荒磯に流れ去る水ののように亡くなってしまったあの人は、昔ここに来た。有間皇子の形見の地として、あの人はここへ来た。しかし、今わたしはあの人の形見の地として、ここへ来たのだ。
「形見とぞ来し」は重要な言葉です。霊魂に出会うための詞であり、行為なのです。次の「文武天皇の冬猟」のところでもお話しましょう。
1798・いにしへに妹と吾が見し黒玉の黒牛方を見ればさぶしも
いにしへにいもとわがみしぬばたまのくろうしがたをみればさぶしも
以前、あの人と黒牛方を見た時、その真っ黒な岩を見ても寂しくはなかったが、今はあの人がいないことで、こんなにも悲しく寂しいのだ。
黒牛方の痕跡があるのは、和歌山県黒江です。藤白坂を下りたあたりの海に、人麻呂は来ているのです。
1799・玉津嶋磯の浦みの真砂にもにほひにゆかな妹も触れけむ
たまつしまいそのうらみのまなごにもにほひにゆかないももふれけむ
紀伊川の下流域に浮かぶ数々の島の浦の真砂にもしっかり触れて行こう。その砂は、むかしあの人が何度も何度も触れて涙を流した真砂なのだから。私も真砂にふれて、あの人の想いを染みこませて帰ろう。
人麻呂が、なぜ紀伊国に旅をしたのか、分かりますよね。
大事な人を亡くした後に、その形見の地を訪ねたのです。
その人との思い出は、海で遊んだこと・黒牛方を見たこと。
このくらいの思い出の地を形見?
いえ、人麻呂は「故人が形見の地としていたところ」に来たのです。
そこは、持統帝が深く心に抱いていた思い出の海辺。
人麻呂は故人の心の裡に触れてしまっていたから、故人の望みに報いる以外なかったのです。万葉集の編纂をやりとげ、文武帝に献上すること。
愛し合ったとは書かれていません。
敬愛するあの人が触れた真砂にも触れて行こう、あの人が触れたに違いないから。
持統帝崩御後、人麻呂は万葉集の編纂をして、文武天皇(持統天皇の孫)に献上する約束を果たそうとしていた。しかし、人麻呂は躊躇していたのです。
なぜなら、そこに皇統の秘密が書かれていたのですから。
文武帝にそのまま献上してもいいのか、持統天皇の霊魂に確かめたのでした。
果たして、持統帝のこたえは?
このことは、いずれ『人麻呂の我は事挙げす』で触れましょうね。