高市皇子を裏切った但馬皇女
記紀には道ならぬ恋の話が出てきますが、その恋は許されていません。しかし、天武朝では許されたのでしょうか。
高市皇子の宮に居た但馬皇女は、穂積皇子を好きになります。二人は恋仲になったようですが、穂積皇子と但馬皇女のふたりは咎めは受けなかったのでしょうか。
但馬皇女、高市皇子の宮に在(いま)す時、穂積皇子を思(しの)ひて作らす御歌一首
114 秋の田の穂向きのよれるかたよりに君によりなな事(こち)痛(た)くありとも
秋の田の稲穂は重くて片方によってしまうが、その片よりのように貴方にわたしは寄り添いたい。どんなに人がいろいろ噂して煩わしくあっても。
穂積皇子に勅して近江志賀の山寺に遣(つか)はす時に、但馬皇女の御歌一首
115 遣(おく)れいて恋つつあらずは追いしかむ道のくまみに標結え吾がせ
行ってしまった貴方を恋しく思いながらいるよりは、追いかけて行きますから、道の曲がり角ごとに標を結って神様にお祈りしていて下さい、あなた。
但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、竊(ひそか)に穂積皇子に接(あ)い、事すでに形(あらは)れて作らす御歌一首
116 人事(ひとごと)を繁みこちたみ己(おの)が世に未だ渡らぬ朝川渡る
世間の噂がひどくて煩わしいので、生まれてこの方一度も渡ったことのない川を、それも朝川を私は渡る
但馬皇女の御歌一首 一書に云う、子部王作る
1515 事繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひてゆかましものを
世間の噂が激しくて耐えられないような里に住まないならば、今朝鳴いていた雁と一緒に連れだって飛び去ったのに
但馬皇女の薨(こう)ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷(ひしょう)流涕(りゅうてい)して作らす御歌一首
203 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪(い)養(かい)の岡の寒くあらまくに
雪が降って来た。雪がたくさん降ったならあの人が眠っている吉隠の猪養の岡が寒いだろうから、多くはふってくれるな。
但馬皇女
父・天武天皇 母・藤原鎌足の娘、氷上娘
?生~和銅元年(708)没 高市皇子の宮に住んでいた 穂積皇子に惹かれていた
穂積皇子
父・天武天皇 母・蘇我赤兄の娘、大蕤(おおぬ)媛
壬申の乱後?生~霊亀元年(715)薨去
・持統五年(691)浄広弐 *大伴坂上郎女も皇子の妻だった
この二人の恋歌は、万葉集の中でも際立って、教科書にも取り入れられるほど有名です。持統天皇はこの恋を許さなかったとして、穂積皇子を志賀の寺に使いに出したと解釈されています。その時の歌が115番で旅に出た皇子を心配する但馬皇女の詠歌だそうです。
志賀の寺と云えば、平安時代にはかの清少納言も「寺は志賀…」と書いたほどの有名な寺院だったのですね。それはともかく、持統天皇が大事にした寺でもあったのです。
そこへ穂積皇子をやって少しほとぼりが冷めるのを待ったのでしょうか。罰されなかったのは、但馬皇女が藤原系の皇女だったからでしょうかねえ。
また明日