十市皇女は祟り神となった
十市皇女は天武天皇と額田王の間に生まれた皇女です。そして、天智天皇の一子・大伴皇子の妃になり葛野王をもうけました。しかし、壬申の乱で夫は破れて自経しました。乱後は、敵将の高市皇子の下に嫁ぎ、ついに宮中で突然死(自死)に至りました。天武七年(678)当時の人は悲運の王妃の彷徨える霊魂を畏れたと思います。
それが比賣塚の伝承と重なったと思うのです。何時の時代か、比賣は十市皇女となっていた。土地の人はその伝承を守って来たと。
では、書紀には十市皇女が祟り神になったと考えられる記述はあるのでしょうか。
十市皇女の葬儀(4月)の後に、9月に五茎の稲が献上されたり、10月に「甘露」という綿のようなものが降ったり、12月アトリが天を覆い西南より東北に飛ぶとい記事があり、この月に筑紫大地震の記事が在ります。家屋の倒壊・地割れ・がけ崩れなど甚大な被害が記述されていますから、詳細な報告が有ったのです。皇女の死と直接かかわる記述は有りませんが、大地震と薨去を臭わせてあるのかも知れません。書紀が政変や王朝の衰退を天変地異で暗示するのは、珍しいことではありませんから…
筑紫大地震の甚大な被害は都に報告されたのですが、人々はどう思ったでしょうね。人々は十市皇女と結びつけたでしょうか。やはり、はっきりしません。
前回紹介したように、新薬師寺の門前に比賣神社が昭和五十六年に鏡神社の摂社となってました。鏡神社は806年(平安時代の平城天皇の即位年)の勧請でした。
比賣神社の横に幾つかの石(神像石)が置かれていて、その謂れが書かれています。
神像石(かむかたいし)由来
弘文天皇の御曽孫淡海三船公は本邦最初の漢詩集「懐風藻」を編集せられ、四面楚歌の中にありながら、曽祖父なる弘文天皇(大友皇太子)いませし日を 顕彰せられ、孝養を讃え四代にわたる御姿石を勧請し永く斎き奉らんと願うものなりと、由来があるのです。
この文面だけでは誰が石を何処から勧請したのかとか、神像石が置かれた時期がいつか等、特定できません。たぶん確かな伝承や文献がないのでしょう。上記の淡海三船は、桓武天皇・延暦四年(785)に64歳で没した人で、刑部卿大学頭因幡守まで上り詰めた学者です。天智天皇→大友皇子→葛野王→池辺王→淡海三船と続く家系で、天平勝報三年に「淡海真人」の姓を賜わりました。「淡海」ですから、天智天皇の近江朝を十分に意識した姓なのです。
天智朝につながる四代の御姿石をここに置いたのは、比賣塚があったからなのか、御姿石があったから比賣塚が祭られたのか、前後も分かりません。しかし、一つ分かることがあります。比賣塚と御姿石はセットなのです。どちらも他方の意味を補完し合っています。十市皇女と大友皇子です。二人を共に奉ろうとする意図が地域に在り、鏡神社が祭祀を執り行ったと云うことです。
二人は共に無念の生涯を閉じた夫婦でした。ともに祟り神となり、強い霊力を持っていると 人々に信じられたのです。そして、光明皇后の薨去の後、淡海三船が御姿石をこの地に祭ったのかもしれません。その後、三船も没し皇統も変わり、806年に鏡神社の勧請となった。更なる祟り神が南都の悪霊を鎮めることになったのでしょう。
淡海真人三船は、三十代に「人臣の礼を欠く罪により大伴古慈悲と共に禁固刑を受けました。他にも、独断で下野国司の罪を責めたため巡察使を解任されています。それでも文字博士・大判事・大学頭などを歴任しました。そうとうに賢い人だったのですね。
鏡神社は、806年に唐津の鏡神社からの勧請され、本殿には藤原氏の氏神である春日神社の本殿社の部材が使われていました。春日神社も本気で祟り神を守護神に変えようとしたのですね。