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志賀島の白水郎の遭難の歌を詠んだのは山上憶良なのか?

2018-11-25 09:35:21 | 79山上憶良の歌がささやく古代の姿

ここは、福岡県福岡市の志賀島。金印が出土した島です。この島の北側には、日本海が広がっています。

昔、志賀島の北側の外海(玄界灘)に面したところに志賀海神社の本宮はありました。

今日では、博多湾側に志賀海神社(延喜式内名神大社)は遷っています。

いえいえ、神社の紹介ではありません。遭難した志賀の荒雄を偲んだ歌の紹介です。

荒雄は「白水郎」ですから、海の男・船乗りでした。ですから、知り合いの百姓(ひゃくせい)津麻呂に頼まれて糧を届けましたが、遭難してしまったのです。

命令は荒雄に出されたのではないから行かなくてもよかったのに、船を出したばっかりに遭難してしまった。家族は毎日毎日神に飯を供え祈り待ち続けた。島の人々も、島の木を切れば荒雄が帰る時の目印がなくなるというので、なるべく島の姿を変えないように心を砕いた。荒雄たちが行ってしまってからというもの、島は寂しくなってしまった。ああ、荒雄らは官の務めでもないのに行ってしまった。荒雄たちは妻子の生活の事は考えなかったのだろう、もう八年も帰って来ないのだから。鴨という名の船が帰ってきたら、能古島の世良の埼に常駐する防人よ、直ぐに知らせてほしい。荒雄たちの船なのだから・・・

荒雄の家族が悲しみに耐えながら、荒雄を偲ぶ歌を作ったというのです。

帰って来ない男たちを待ち続ける妻子の悲しみと苦しさを詠んだ歌、十首です。この十首の左脚に、長い文が書かれています。荒雄が遭難するに至ったいきさつです。

もともと対馬への送糧を言いつけられたのは、宗像の百姓宗形部津麻呂でした。然し、別の郡の荒雄に大事な役目を頼んだのでした。

津麻呂と荒雄の仲が良かったとしても、宗像には船を出せる海人がいなかったのでしょうか。他所の郡の海人に仕事を任せるとは何だか違和感がありますね。

宗像氏はもともと海の民ではありません。宗像氏の祖先神は「大国主」ですから、海で生きた氏ではなかった、そうでなければ、舵取りの一人や二人はいたでしょう。

志賀の荒雄は白水郎(あま)と書かれていますから、舵取りが生業です。

更に、もう一つ。この歌を詠んだのは誰でしょう。万葉集の編者は、志賀の荒雄を待ち続けた人の作歌ではなく、山上億良かも知れないと書いています。

 そうでしょうか。憶良ですか? そうは思えないのですが。

神亀年間(724~729)は、聖武天皇の時代です。憶良が大宰府に国司として来て三面から四年の間に荒雄の遭難があり、歌を作ったということでしょうか。

確かに憶良は社会派の歌人として著名で、万葉集で特に「貧窮問答歌」などが有名ですが、漢学者らしく言葉は豊かで高尚です。その憶良をして「白水郎の歌十首」はあまりに素朴だと思います。

荒雄に対して「さかしらに命令もないのに船を出した」と責めるような言葉の使い方を見ると、憶良とは思えません。やはり、志賀に残された妻子の歌としたが自然です。

もちろん、志賀に歌が読める風土があったということです。東国で読まれた防人の歌と同じように庶民も歌が読めたのです。

志賀島には、不思議な祭りや伝承があります。昔から、文化の豊かな土地だったと思います。

山誉め祭りの紹介を少しします。とても変な祭りです。日本の国家「君が代」と同じ歌詞の歌が祭りで使われています。手を後ろ手に縛られた人が出てくる祭りです。何だか不思議ですよ。

君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて 苔の生すまで

私は、歌を詠むことを古代の志賀の人はしていた、と思う。それが、今日の結論です。

では、又。


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