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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

衣通姫・軽太郎皇女は内部告発する

2017-06-18 14:02:50 | 59難波天皇

衣通姫は内部告発する・君が行きけ長くなりぬ

木梨軽皇子は仁徳天皇と磐姫皇后の孫で、允恭宇天皇(伊邪本和気命)の長子です。母は応神天皇(品陀和気命)の御子で大郎子(意富本杼王)の妹・大中津比賣です。仁徳天皇の後は、子の履中天皇(伊邪本和気命)、弟の反正天皇(水歯別命)、弟の允恭天皇と兄弟で皇位を継承したとされています。履中(64歳)反正(60歳)允恭(78歳)と長生きでしたので、木梨軽皇子が姦通の嫌疑をかけられたのは允恭天皇の崩御後、この時はどなたも相当にお年だったのではないでしょうか。その時、抑えられない衝動で妹と道ならぬ恋? ですか…

(古事記)あしひきの山田を作り 山高み 下樋をわしせ 下どひに 我がとふ妹を 下泣きに我が泣く妻を 昨夜こそは安く肌触れ

(また歌ひたまひしく)笹葉に打つや霰のたしだしに い寝てむ後は人は離(か)ゆとも うるわしとと さ寝しさ寝てば刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

と謡ったので、百官人心が皇太子の木梨軽皇子に背いて穴穂皇子に傾いたというのです。事の起こりは歌謡なのです。書紀では、器の汁が凝ったので占って姦通が分かったという展開です。どちらも何とも理解しがたい展開でした。軽皇子は大前小前宿祢の大臣に逃げて兵器を備え、穴穂皇子も兵器を用意しました。どう読んでもクーデターですね。

木梨軽皇子が同母妹との姦通罪で皇位継承権を奪われ死地に追い込まれたのは、古事記でも書紀でも同じです。然し、古事記では大前小前の大臣が軽皇子を捕らえて献進し、皇太子は伊予の湯に流されました。その後を追って軽大郎女が詠んだ歌が「君が行きけ長くなりぬ 山たづの迎えを往かむ 待つには待たじ」なのです。85の磐姫の歌に似ていますね。書紀では「伊予に流されたのは皇女の方」です。

磐姫皇后と軽大郎女の歌は、愛しいあの方がお出かけになってからずいぶん日が経ってしまった、までは同じです。磐姫皇后は「迎えに行こうか、このまま待ち続けようか」と悩みますが、軽大郎女皇女は「お迎えに往こう。待っているだけなんてできないこと」と言い切っています。そして、古事記では「すなはち共に自ら死にたまひき」となりました。

万葉集には90番の歌の後に長い文章があります。まず、仁徳天皇が磐姫皇后の留守に八田皇女を召したことで、皇后が怒ったこと。しかし、恨んだ皇后が帰らない天皇を恋慕うという書紀とは矛盾する4首(85~8)が並びます。書紀では、帰って来なかったのは天皇ではなく皇后なのですから。

古事記の軽大郎女皇女の歌は「待ってなんかいないで迎えに行こう」という歌なので矛盾はないようにも見えます。書紀では伊予に流されたのは皇女の方でした。皇太子は流されていませんが、流されたはずの皇女が「お迎えに行こう」と詠んでいる歌が、万葉集にあるのです。ですから「今かんがうるに、二代(仁徳・允恭)二時にこの歌はない」と、脚注を長々と入れているのです。どう読んでもおかしいというのです。

衣通姫は内部告発した

では、古事記の展開ならば、「君が行き」の歌は矛盾がないのでしょうか? いえ、矛盾があるのです。「皇太子は伊予に流されましたから、待っていても許されて帰れるかどうかわかりません」し、迎えに行っても罪人であれば帰れませんし、皇女だから何とかなるわけはありません。でも、迎えに行くというのです。なぜ? 理由は一つ、罪はなかったと皇女は思っているからです。古事記の物語や書紀の話に対して、抗議しているのではないでしょう。万葉集の歌は、別の物語・事件を告発していると思われます。

ここに隠れた事件を引き出す鍵があるはずです。磐姫皇后から難波天皇、「君が行きけ長くなりぬ」から帰って来れない高貴な人・天皇、軽大郎女から導き出される軽皇子・皇太子、皇女は相手を思い迎えに行った、何より「軽」皇子です。軽皇子は孝徳天皇のことです。軽皇子という名を当時の人が忘れるわけはありません。難波宮の天子なのですから。

では、ここで衣通姫が誰をさすのか、云うまでもありません。有間皇子を迎えに行った間人皇后意外にはありません。万葉集は「衣通姫」の歌で事件を告発しているのです。

 

深く信頼し合い愛し合っていた二人の運命を、その悲しい物語を、万葉集は繰り返しなぞり告発しました。


難波天皇の御代を寿ぐ難波津の歌

2017-06-16 20:53:40 | 59難波天皇

難波天皇の御代を寿いだ歌

難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花

この歌は、現代では「競技かるた」の開始時に詠まれることが通例となっているそうです。難波津に咲くやこの花冬ごもり 今を春べと咲くやこの花

また、「いろはにほへと」のように書道の手習いのはじめにも使われた歌で、徳島県の観音寺遺跡から万葉仮名で「奈尓波ツ尓昨久矢己乃波奈」と記された7世紀のものと思われる習書木簡が出土しました。他にも、この歌を記した木簡が出土しているそうです。平安時代には「難波津の歌」は誰もが知っていたのですね

この歌は、宇治若郎子と大鷦鷯尊が皇位を譲りあったため、極位が三年間空位となっていたが、難波高津宮に大鷦鷯尊が即位した時、治世の繁栄を願って詠まれた歌となっています。ここに詠まれた花は梅だということですが、この歌が仁徳天皇の御代を寿いだ歌と云うことに、とても違和感があります。実在さえはっきりしない仁徳帝の時代の歌が平安時代になって流行するというのも不自然だし、三年間即位しなかったうえに、更に三年間民から税を取らずにいた仁徳帝の御代をいつ寿いだのでしょう。皇位を譲りあっていた三年間は、皇太子は宇治若郎子ですから大鷦鷯尊に即位を促すのは変ですし、税を取らない切り詰めた生活の時の歌としても変です。

ですから、同じ難波天皇である孝徳天皇の御代を寿いだ歌だと考えると、違和感はありません。日本書紀にも「いふべからず」と言われた壮大な難波宮を構えた孝徳天皇の御代、難波津にみなぎる新しい時代の風を詠んだと。大化改新によって今までと違った時代が来る、物流の豊かな難波津にまるで春になったような期待感が漂う、という歌になるのです。

これが、孝徳天皇の御代を寿ぐ歌だとすると、万葉集に孝徳帝時代の歌が何故ないのか、気になってきます。わたしは孝徳帝の御代の歌はあったと思います。それは万葉集の中に在ったのだと。その事に、そろそろ触れなければなりませんね。

 また、後で。


仁徳天皇と鹿・政敵の暗殺を意味するのか

2017-06-08 17:06:20 | 59難波天皇

雄鹿が鳴かなかったのは、すでに殺されていたから

万葉集の巻九「紀伊国行幸十三首」の編集を思い出しますと、「鹿が鳴かなかったのは既に殺されていたからだ」という暗示になっていました。「鹿の死は政変」であったとも読めました。十二首目の「木の国の昔さつおのなり矢持ち 鹿とり靡べし坂の上にぞ或る」は、まさに鹿を弓で殺したことが辺りを平定したことになるという歌でした。

万葉集巻九の冒頭歌「ゆふされば小掠の山に臥す鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも」と響き合うと、「鹿が鳴かなかった=鹿は殺されていた」という暗示となりました。

鹿が鳴かなかった話が日本書紀「仁徳紀」にあるのです。当時の人は知っていた「兎我野の鹿」の物語です。「古事記」には 鹿の話はありません。

仁徳天皇は難波高津宮で八田皇女と鹿の鳴き声を聞いていた

 仁徳天皇は皇后と高殿で涼んでおられました。毎夜、兎我野から聞こえて来る鹿の声が澄み切っていてもの悲しかったのです。雄鹿が鳴く声を聞いて心慰められていた天皇は、或る夜に雄鹿が鳴かなかったので「今夜は鳴かないが、いったいどうしてなのか」と気になっていました。次の日、鹿肉が献上されました。「もしや」と思った天皇は、「何処で捕れた鹿なのか」と尋ねました。答は「兎我野です」という…毎夜天皇を慰めていた雄鹿であることを知るという展開です。

続いて、「昔、或人が兎我に行って野中に宿リした時に聞いた、二匹の夫婦鹿の会話」の物語があります。男鹿が見た夢は「殺されて塩にまぶされた姿」だったという、やはり「鹿と死」がつながる話です。この二つの話は仁徳紀に在りますが、そこにはどんな編集意図があるのでしょう。

聖帝と書かれた仁徳天皇は、宇治若郎子の自死によって即位した人です。八田皇后はその宇治若郎子の妹です。死に際に妹を献上しているのです。仁徳帝は八田皇女の妹の雌鳥皇女も後宮に望んでいます。倒した相手の血筋の女性を他に逃がさない為とも読み取れます。古事記では、「大后が強くて姉の八田皇女も後宮に入ることはできていない。だから、わたしは貴方の妻になりましょう」と、雌鳥皇女自らが隼別皇子を選んだことになっています。そして、二人は殺されたのです。

万葉集巻九・持統天皇の「紀伊国行幸」の歌群の前に置かれた「ゆうされば小掠の山に臥す鹿」の歌は、有間皇子の死を暗示したものだったと既に書きました。そうすると、巻八の鹿も、「鹿=殺された」という暗喩となります。1511は岡本天皇、1664は雄略天皇(*或本に岡本天皇御製歌という)どちらも岡本天皇かもしれませんから。

そうであれば、巻八・九の「鳴かない鹿=死」とは「有間皇子事件」を暗示したとなって、皇太子でありながら死なねばならなかったという事件になり、宇治若郎子ともつながるのです。

 万葉集には繰り返し『宇治若郎子』が読まれています。額田王『宇治の都の仮廬しおもほゆ』、柿本人麻呂「宇治若郎子の宮処の歌」などです。なぜ万葉代表歌人の二人が「宇治若郎子」を詠んだのかの答は「宇治若郎子が有間皇子と重なる運命だったから」なのです。二人は有間皇子を偲びました。

ここで、一つの疑問が出てきました。聖帝と言われた仁徳天皇は、弟の宇治若郎子と三年間極位を譲りあい、その弟の自殺によって即位したと、書紀に書かれていますが、日本書紀の完成は720年です。柿本人麻呂が柿本佐留であれば、彼の没年は708年となっています。12年も前に書紀の仁徳紀「兎我野の鹿」の内容を知っていたことになります。書紀の編纂は長きに渡っていますから、不思議ではないのかも知れませんが。たとえば川嶋皇子(691没25歳)は「帝紀及び上古の諸事を記定」という仕事を15歳から始めていますから、歴史や伝承は数多くちまたに伝えられていたのかも知れませんし、皇族貴族は自分の出自をはっきりと自覚していたでしょうし、それは口伝や文字として残されていたに違いありません。

むしろ日本書紀などのような「正史」こそ、ほとんどの人に知られていなかったのでしょう

万葉集の難波天皇とは誰か? 仁徳帝か孝徳帝か、謎はまだ解決されてはいません。


磐姫皇后と八田皇后の葛藤、雌鳥の皇女の悲劇

2017-05-29 23:43:58 | 59難波天皇

難波高津宮御宇天皇の代の歌

万葉集事典では「難波天皇」は、「仁徳天皇。孝徳天皇とも」と書かれています。

万葉集の巻二は、「相聞」の部立に始まり、『難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 諡を仁徳天皇』と、巻一と同じように「○○天皇の代」という歌が詠まれた時期を示す表題が掲げられています。聖帝といわれる仁徳天皇は、三人の女性を不幸にしたとわたしは思います。

万葉集巻二の冒頭歌ですが、「磐姫皇后、天皇を思いて作らす歌四首」という題があります。難波高津御宇天皇の皇后は磐姫ですから、これが事実であれば「万葉集では最古の歌になる」ということです

磐姫皇后は帰って来ない天皇を思って歌を四首詠みました。

85 あの方がお出かけになってからずいぶん日が経ちました。お帰りにならないあの方を山に入ってもお迎えに行こうか。それとも、このまま待ち続けようか。

86 このように恋しく思っているよりは、お迎えに行って高い山の岩を枕にして死んでしまうほうがまだいい。

87 いえいえ、このままあの方を待ち続けましょう。靡くように長いわたしの黒髪が白髪になるまでも。

88 秋の田の稲穂の上に立つ朝霧はやがて消えてしまうけれど、わたしの恋は何時か消えるのだろうか。

磐姫は帰って来ない天皇を死ぬほど待っているようです。一体何があったのでしょう。仁徳天皇は何処へ行かれたのでしょうか。不思議なことに、書紀では帰って来ないのは磐姫皇后の方で、帰ってほしいと何度も歌を詠んで呼びかけるのは仁徳天皇の方です。

書紀の仁徳天皇は妹の八田皇女を「後宮に召し入れたい」と、磐姫皇后に云うのですが、皇后は許しませんでした。天皇は皇后が紀伊國に出かけた隙に、八田皇女を宮中に召しいれます。それを聞いた皇后は、そのまま難波には帰らずに 山背川(木津川)を遡り、山背の筒城に宮室を建ててそこに留まりました。何度も何度も歌を詠んで帰ってほしいとねがった天皇は、筒城宮まで出かけて皇后に呼びかけますが、皇后は会いません。そこで、天皇は最後の歌を詠みました。

つぎねふ 山背女(やましろめ)の木鍬持ち 打ちし大根 根白の白腕(しろただむき)巻かずけばこそ 知らずと言はめ

(つぎねふ)山背女が木の鍬で掘り起こした大根、その白い大根のような貴女の腕を枕にしなかったなら、あなたを知らないと云うこともできようが

この歌に皇后は奏上させて答えました。「陛下は八田皇女を納しいれて妃となさいました。皇女と並んで、后でいたいとは思いません」それでも、天皇は皇后を恋しく思っておられたと、書紀には書かれています。

こうして見ると、万葉集の磐姫皇后の歌はなんだかすんなりとは受け取れませんね。万葉集と書紀とこれほど食い違うのは何故でしょう。何かありそうですね。では、仁徳天皇について少し考えてみましょう。

仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)は誉田(応神)天皇の第四子で、もともと皇太子ではありませんでした。皇太子は応神天皇の末子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)でした。応神天皇の41年に天皇崩御、「時に皇太子、位を大鷦鷯尊に譲りまして、未だに即位されていません」でした。のみならず、菟道稚郎子は兄の大鷦鷯と皇位を譲りあう事三年にして、ついに自殺してしまうのです。

真に不思議不可解なことでありましたが、これは兄を思う弟の美談として書記に書かれているのです。然しながら、死ななければならない理由は、皇太子が生きていれば大鷦鷯尊は即位できなかった、だから死を選んだということです。そして、妹の八田皇女を差し出した(八田皇女は後に皇后となりますが、子供はありません)のは何故でしょう。郎子(いらつこ)という呼称は、「皇子」と同じ意味で使われていますが、実際に「郎子」と呼ばれる男性は、菟道稚郎子の他には三人、大郎子(継体天皇の皇子)、波多毘大郎子(大日下王・大草香皇子・応神天皇の皇子、安康天皇に殺される)、大郎子皇子(継体天皇の皇子)だけです。「宇治天皇」の言葉のみが残されていますが、菟道稚郎子は大王位についておられたかも知れませんね。そうなると、仁徳天皇の謀反が成功したということになります。

八田皇女は倒した相手の皇統をつなぐ女性ですから、当然、後宮に入れられます。八田皇女の同母妹の雌鳥(めとり)皇女も後宮に入れられようとしますが、仁徳天皇の異母弟の隼別(はやぶさわけ)皇子が先に雌鳥皇女を見初め奪ってしまいました。仁徳天皇が雌鳥皇女の殿(寝室)にいでますと、歌が聞こえました。

久方の天金機(あめかなはた)雌鳥が織る金機 隼別の御おすひがね (天の金機は、雌鳥の織女たちが織る金機は、隼別皇子のお召し物なのです)

仁徳天皇は弟の秘密を知るのですが、八田皇后の言葉を畏れて見逃し我慢していました。

然し、ある日、雌鳥皇女の「隼は天に上り、飛び翔り、いつきが上の鷦鷯とらさね

は天高く飛翔し、清められた木の上の鷦鷯をお取りなさい)の歌を聞き、天皇の怒りが爆発します。殺されそうになった隼別皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮に逃げ込もうと思って急ぎました。八田皇后は天皇に奏上しました。「雌鳥皇女は重罪ですが、殺す時にその身に着けているものを取らないでください」天皇は「皇女の身に着けた足玉・手玉を取ってはならない」と命じました。

逃げながら、隼別皇子は歌いました。梯立のさがしき山も我妹子と二人越ゆれば安むしろかも 

梯立の険しい山も我が妻と二人で越えれば、むしろに座るように楽なものだ

愛し合う二人の運命は仁徳天皇によって断たれました。八田皇后は妹がせめて皇女として賜死することを願ったのでしたが、皇女としてその身に付けた珠は奪われていました。その珠を臣下の妻と采女に見た時、八田皇后はどれほど絶望したでしょうね。

八田皇女は果たして幸せだったでしょうか。気になるところです。

仁徳天皇の87年間という異常に長すぎる治世にも違和感はありますね。

また。


難波宮に住んだ難波天皇とは誰か?

2017-05-27 17:20:10 | 59難波天皇

難波宮に暮らした難波天皇と皇后

難波宮は謎だらけですね。大阪城の南に広がる難波宮は、難波長柄豊崎宮とされています。孝徳天皇の宮であり、天武天皇が副都とした宮であり、文武天皇が行幸し、聖武天皇が後期難波宮を造営しました。

孝徳天皇の前期難波宮は掘立柱の建物で瓦は葺かれていませんが、聖武天皇の後期難波宮は瓦葺きです。双方の宮殿は、ほぼ同じ位置と規模で立て直されましたので、発掘された遺構が重なっています。

双方とも広い朝堂院の庭がありまして、まさに「朝廷」で様々な儀式が執り行われたのです。八角形の建物に東西に挟まれた門は、内裏・大極殿への出入り口でもありました。

このような立派な難波の宮に暮らしたのは、孝徳天皇でした。皇后は間人皇女でした。地方から采女も召し上げていますから、孝徳天皇の後宮は整っていたのです。然しながら、万葉集では孝徳天皇の御代の歌は取り上げられていません。孝徳帝自身の歌は、書紀に取り上げられているのに、です。なぜでしょうか。持統天皇が何度も何度も追慕して鎮魂した有間皇子の父親が、孝徳天皇であるのに、非常に不思議、不可解な事実です。このことを考えてみましょうね。

さてさて、慌てることはありません。