衣通姫は内部告発する・君が行きけ長くなりぬ
木梨軽皇子は仁徳天皇と磐姫皇后の孫で、允恭宇天皇(伊邪本和気命)の長子です。母は応神天皇(品陀和気命)の御子で大郎子(意富本杼王)の妹・大中津比賣です。仁徳天皇の後は、子の履中天皇(伊邪本和気命)、弟の反正天皇(水歯別命)、弟の允恭天皇と兄弟で皇位を継承したとされています。履中(64歳)反正(60歳)允恭(78歳)と長生きでしたので、木梨軽皇子が姦通の嫌疑をかけられたのは允恭天皇の崩御後、この時はどなたも相当にお年だったのではないでしょうか。その時、抑えられない衝動で妹と道ならぬ恋? ですか…
(古事記)あしひきの山田を作り 山高み 下樋をわしせ 下どひに 我がとふ妹を 下泣きに我が泣く妻を 昨夜こそは安く肌触れ
(また歌ひたまひしく)笹葉に打つや霰のたしだしに い寝てむ後は人は離(か)ゆとも うるわしとと さ寝しさ寝てば刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
と謡ったので、百官人心が皇太子の木梨軽皇子に背いて穴穂皇子に傾いたというのです。事の起こりは歌謡なのです。書紀では、器の汁が凝ったので占って姦通が分かったという展開です。どちらも何とも理解しがたい展開でした。軽皇子は大前小前宿祢の大臣に逃げて兵器を備え、穴穂皇子も兵器を用意しました。どう読んでもクーデターですね。
木梨軽皇子が同母妹との姦通罪で皇位継承権を奪われ死地に追い込まれたのは、古事記でも書紀でも同じです。然し、古事記では大前小前の大臣が軽皇子を捕らえて献進し、皇太子は伊予の湯に流されました。その後を追って軽大郎女が詠んだ歌が「君が行きけ長くなりぬ 山たづの迎えを往かむ 待つには待たじ」なのです。85の磐姫の歌に似ていますね。書紀では「伊予に流されたのは皇女の方」です。
磐姫皇后と軽大郎女の歌は、愛しいあの方がお出かけになってからずいぶん日が経ってしまった、までは同じです。磐姫皇后は「迎えに行こうか、このまま待ち続けようか」と悩みますが、軽大郎女皇女は「お迎えに往こう。待っているだけなんてできないこと」と言い切っています。そして、古事記では「すなはち共に自ら死にたまひき」となりました。
万葉集には90番の歌の後に長い文章があります。まず、仁徳天皇が磐姫皇后の留守に八田皇女を召したことで、皇后が怒ったこと。しかし、恨んだ皇后が帰らない天皇を恋慕うという書紀とは矛盾する4首(85~8)が並びます。書紀では、帰って来なかったのは天皇ではなく皇后なのですから。
古事記の軽大郎女皇女の歌は「待ってなんかいないで迎えに行こう」という歌なので矛盾はないようにも見えます。書紀では伊予に流されたのは皇女の方でした。皇太子は流されていませんが、流されたはずの皇女が「お迎えに行こう」と詠んでいる歌が、万葉集にあるのです。ですから「今かんがうるに、二代(仁徳・允恭)二時にこの歌はない」と、脚注を長々と入れているのです。どう読んでもおかしいというのです。
衣通姫は内部告発した
では、古事記の展開ならば、「君が行き」の歌は矛盾がないのでしょうか? いえ、矛盾があるのです。「皇太子は伊予に流されましたから、待っていても許されて帰れるかどうかわかりません」し、迎えに行っても罪人であれば帰れませんし、皇女だから何とかなるわけはありません。でも、迎えに行くというのです。なぜ? 理由は一つ、罪はなかったと皇女は思っているからです。古事記の物語や書紀の話に対して、抗議しているのではないでしょう。万葉集の歌は、別の物語・事件を告発していると思われます。
ここに隠れた事件を引き出す鍵があるはずです。磐姫皇后から難波天皇、「君が行きけ長くなりぬ」から帰って来れない高貴な人・天皇、軽大郎女から導き出される軽皇子・皇太子、皇女は相手を思い迎えに行った、何より「軽」皇子です。軽皇子は孝徳天皇のことです。軽皇子という名を当時の人が忘れるわけはありません。難波宮の天子なのですから。
では、ここで衣通姫が誰をさすのか、云うまでもありません。有間皇子を迎えに行った間人皇后意外にはありません。万葉集は「衣通姫」の歌で事件を告発しているのです。
深く信頼し合い愛し合っていた二人の運命を、その悲しい物語を、万葉集は繰り返しなぞり告発しました。