気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

大伴家持が詠んだ万葉集の最終歌、その前の一首の意味

2019-12-29 23:46:48 | 81令和元年万葉集を読む

天平文化が花開いた奈良時代。でも、政変が連続した厳しい時代でした。

「万葉集」は奈良時代の歌人である大伴家持が編集した、と言われています。
「万葉集」の最終歌は、4516番歌の「新(あらた)しき 年の初めの初春の今日降る雪の いやしけ吉事」ですね。
とても爽やかな新年の喜びと期待感に満たされる歌です。
この歌を詠んだのは、大伴家持でした。因幡守として国郡司を饗応する宴席で詠んだ歌です。彼がどんな思いでこの歌を詠んだのか、この歌から読み解ける歴史の一端を知りたくなりますね。
この歌が詠まれた時代を考えるために、ひとつ前の歌・4515番歌を読んでみましょう。同じ大伴家持の作歌です。
4516 秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ
天平宝字二年(758)七月に詠まれた歌ですが、なんだか非常に寂しい歌です。
題には『七月の五日に、治部少輔(じぶのしょうふ)大原今城真人(おほはらのいまきのまひと)の宅(いへ)にして、因幡守(いなばのかみ)大伴宿禰家持を餞(せん)する宴の歌一首』とあります。七月は旧暦ではすでに初秋でした。
大原今城真人という人が、因幡守となって赴任する大伴家持のために別れの宴を開いてくれたのでした。その心尽くしに対して詠まれたのが4515番歌なのです。


4515 秋の風が 萩の枝の先の葉まで靡かせて吹いている。この萩の花を髪に挿して宴を楽しむことのないままで、お互いに別れ別れとなっていくのだ。(別れとはつらいものだ)
家持は「相か別れむ!」と言い切りました。寂しさが切々と伝わります。万葉集のなかで「相か別れむ」という表現は、この家持の歌、4515番歌のみだそうです。
なぜ、家持はこんなに寂しい歌を詠んだのでしょう。
家持は大伴氏の御曹司、大手門を守る大伴氏という古代豪族の末裔、その家持に何があったのでしょう。
ちょうど一年前の七月、その事件はありました。大伴氏には大変な試練の時でした。家持は親しい人々や一族の有力者や大の親友を亡くしました。「橘奈良麿の謀反の発覚」事件です。
この大事件に遭遇するまでの大伴家持の半生を振り返ってみましょうか。

家持は物心ついたときには、父の大伴旅人のもとで英才教育を受けていました。
弟の書持とも仲良く育ちました。父の旅人が大宰帥となって九州に赴任した時も、旅人の「長屋王の変」(729年、左大臣の長屋王一家が無実の罪で命を落とした事件)への対応も、目撃しました。旅人が天平三年(731年)に没した後、十代の家持の肩には大伴氏がのしかかってきたのです。
天平十年(738)の諸兄の旧宅での橘奈良麿の宴の時は、家持は内舎人(うどねり)でした。
天平十二年(740)藤原広嗣が乱を起こすと、聖武天皇について伊勢・不破・恭仁京・信楽京と聖武天皇とともに関の東を五年間も移動し続けました。
天平十六年(744)、献身的に仕えた聖武天皇の息子の安積親王の突然死、家持は内舎人として仕えていましたからうちのめされました。
そして、失意のうちに越中守として赴任している時、弟の書持(文持)の薨去を知ります。
更に打ちのめされた家持は病に倒れました。越中守時代に家持の心の支えとなったのが、大伴池主でした。池主と家持は深い友情で結ばれたのでした。


しかし、聖武天皇が娘の阿倍内親王に譲位したあと、皇位継承の問題がくすぶり始めます。孝謙天皇は独身でしたので、次の皇太子が誰になるのか、大変な火種が残されたのです。
大伴氏も藤原氏も他の豪族も、次の政権をにらんで水面下で暗躍していたでしょう。それが、ついに表面化し藤原氏の反対勢力が一掃される事件が起こりました。
天平勝宝九年(757) 橘奈良麿の謀反発覚事件
何故か、家持はその事件に巻き込まれなくて済みました。それまで親しくしていた人々から距離を取っていたのです。しかし、親友だった大伴池主は事件に巻き込まれて命を落としました。池主の死を知った家持はどんな思いを抱いたでしょう。
自分が苦しい時を支えてくれた池主を死なせてしまったのです。心穏やかではなかったでしょう。

大伴池主、彼が無念の最期を遂げた一年後の七月、いろいろ思い出したでしょうから家持が宴を楽しんだはずはありません。餞する宴の歌は4515番歌以外の歌は掲載はありません。この一首のみが最終歌の前に置かれています。当然、にぎやかに餞別の会などしなかったのです。
私はそう思いますし、そう解釈ました。

なぜ、家持は難局を乗り越えることができたのか。
不思議ですが、誰かが情報を漏らして家持を救ったのです。それは、誰なのか。
答えは万葉集の中にあるはずです。

4516番歌のひとつ前の歌「秋風の末吹き靡く萩の花‥」を家持が詠んだ場所『大原今城真人の宅』がヒントです。
私は、大原今城真人が大伴の氏の継続のために、藤原氏側の情報を家持に漏らしたのだと思います。彼は大伴氏をつぶしてはならないと考えた。そのために、家持を救おうと決めたのです。
だって、大原今城真人の母は「大伴女郎」なのです。大伴氏ゆかりの女性なのです。彼が大伴を断絶してはならないと考えたなら、それは自然です。

大原今城真人はどんな人物だったのか、家持を助けたとしたら其のことを咎められなかったのか、気になりますね。

彼の話は、また今度。

今日は、4515番歌が語ってくれた歴史の一コマです。

橘奈良麿たち反藤原勢力が一網打尽に捕らえらることを知った大原今城は、家持に自重と奈良麿たちとの交流を断つように助言した。その助言を入れた家持は胸中穏やかではなかったが、大伴の氏を断絶しないために苦渋の選択をした。

謀反発覚という大事件は誰にも止められず、443人もの人が刑に処された。大伴氏からも多くの処分者を出したので、罪を問われなかった家持も因幡国へ左遷となった。その家持を激励する選別の宴が大原今城真人の宅で開かれた。ちょうど、大伴池主らが獄中死した七月のほぼ同日である。家持は涙にくれたが、大原今城に対して別れの歌を詠んだ。

上のような状況で家持が詠んだ歌が4515番歌なのです。

4516 秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ 

では、また。


万葉集の最終歌を詠んだ大伴宿禰家持

2019-12-26 23:15:08 | 81令和元年万葉集を読む

4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布弗流由伎能 伊夜之家餘其騰
     あらたしき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
この歌を詠んだのは、万葉集の編集者とみなされている大伴宿禰家持です。
天平宝字三年(759)正月一日、家持は「新しき年の初めの」の歌を因幡国の国庁に国郡司らを招いた宴で詠みました。前年、天平宝字二年六月、家持は因幡守に任じられ、七月に親しい者による別れの宴を済ませ、ほどなく家持は任地に赴いていたのです。


そして、正月一日の宴。この年は、正月一日と立春が重なった年でした。その年の宴歌です。
 新しい年の初めの一日が 立春に重なった今日、このめでたい日に降る雪よ どんどん降り積もれ。 吉いことが積み重なるように この国の弥栄をことほぐように 降り積もれ 

凛と引き締まった寿歌です。国土と人々の幸せを願い、新年を寿ぐ思いが込められています。
しかし、こんな寿歌を詠んだ家持は、この時非常に寂しく辛い状況でした。
因幡守として国郡司を饗応した家持でしたが、彼の因幡守任命はいわゆる左遷でした。

家持が因幡守に任じられた一年前の天平勝宝九年(757)橘奈良麿の謀反事件がありました。そこで、反藤原勢力は一掃されていました。


橘奈良麿の父の左大臣橘諸兄の館に聖武太上天皇に従がして訪問したこともある家持だったのに、「奈良麿の謀反」に何故か巻き込まれなかったのでした。家持は443人もの処分者を出した政変を生き残ったのです。それは、彼を死なせてはならないと密かに情報を伝えた人物がいたということでしょう。だから、家持は橘諸兄たちから遠ざかり命をつないだのです。

しかし、藤原氏としては名門豪族大伴氏を率いる家持を野放しにするわけにはいきません。
家持が左遷されたのは、古代からの名門豪族である大伴氏が藤原氏にとって危険な存在だったからです。七月、藤原仲麻呂は抜かりなく家持を因幡国に遠ざけ、八月には孝謙天皇の譲位、息のかかった大炊王(淳仁天皇)に即位させました。

政変の度に、藤原氏によってターゲットの動向は監視され、事が起きた時には逃げ道はないのです。
橘奈良麿の謀反事件でも「反藤原氏勢力を一網打尽」計画は準備万端でした。

天平勝宝九年の橘奈良麿の変は、計画通りに事が進行しました。
発端は、聖武天皇の遺詔により「道祖王ふなどおう」が皇太子指名されていたことです。天武天皇の皇子である新田部親王の王子に皇位が移るのです。それが聖武天皇の遺言でした。孝謙女帝は独身でしたから、当然だれかに皇位継承されるのですが、藤原氏としては道祖王(ふなどおう)では納得いかなかったのでした。彼は天武系の王子です。

 

聖武天皇崩御(756年5月)の半年後の天平勝宝八年(757年1月)、左大臣を辞していた橘諸兄を死に至らしめ(おそらく殺害されたと思います)、その同年(757)7月に「橘奈良麿の変」を実行しました。
そうとしか考えられません。藤原氏がかかわる政治的な出来事は、ほとんど半年前から準備され確実に実行されています。それも、ことごとく「半年後の法則」(私が命名したのですが)に当てはまります。
757年7月、奈良麿の謀反は、大伴家持とも親しく交流していた山背王(長屋王の子)によって密告されました。それまで反藤原仲麻呂派だった山背王が、なぜか仲間を裏切り藤原氏に密告したのです。内部事情を知り尽くした王の密告です。そして、同母の兄をはじめ443人もの人が刑に処せられました。同母の兄の安宿王はその妻子とともに佐渡に流罪でした(宝亀四年・773年には、高階真人の姓を賜り、臣下に下る)。しかし、同母の兄の黄文王は皇位継承者候補とされていたために獄中で杖に打たれ絶命しています。
家持はこの危険な網を逃れました。家持の大切な人々は、歌を交換し合った友である大伴池主も、大伴氏の期待の星だった大伴古麻呂も、道祖王も名だたる官人も獄中の拷問で絶命したのでした。
何もできなかった家持は無念でした。

家持の主人だった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、大伴家持の本心を見抜かないはずはありません。家持が大伴氏を断絶しないために不本意な選択をしたことに気が付いていたはずです。ですから、橘奈良麿の変(757年7月)のちょうど一年後に、因幡国に左遷したのです。家持が都を去ると、八月にさっさと淳仁天皇(大炊王)を即位させました。
時代の流れと一族の受難を密かにかみしめて家持は因幡国で年末を迎え、そして新年を迎えたのです。
そこで、大伴家持は新年を寿ぐ歌を詠み、それを万葉集の最終歌としたのです。
どんなにつらいことがあっても、家持が寿歌を詠み切ったのはなぜか。それは、彼が初期万葉集の編集に倣い合わせたからです。
柿本人麻呂によって編纂された「初期万葉集」では「寿歌をもって最終歌としていた」からです。
だから、家持も渾身の力を注いで最終歌を詠んだのでした。