「すぎにし人の形見ぞと」という題で話した時の資料を紹介しています。
今日は⑥からで、万葉集の1番歌(冒頭歌)です。
⑥では、万葉集の冒頭歌の紹介。泊瀬朝倉宮御宇天皇=雄略天皇の歌である。
(なぜ万葉集の冒頭歌が雄略天皇なのか、持統天皇の祖先と云うのだろうか。それにしても、雄略天皇の祖先は応神・仁徳天皇であるが、この王統は武烈帝で滅びて「継体天皇」に変わっている。)
ただ、この冒頭歌で雄略天皇は、菜を摘む娘に敬語を使っている。『菜摘ます子=菜をおつみになっている娘』と『家をおっしゃってください。名を名のってください』 求婚の儀式だろう。
古代では名前を呼べるのは、特別な間柄か親族で、他人に名を知られるのを嫌った。
此の菜を摘む女性は高貴な家柄の姫で、儀式により婚姻が整おうとしている瞬間である。
これは「雑歌」=儀式歌の冒頭歌にふさわしい歌なのである。
三人の天皇は、なぜ小さな香具山を詠んだのか
⑦ では、万葉集の2番歌、舒明天皇の歌を読もう。舒明天皇は天智帝・天武帝・間人皇后の父であった。
舒明天皇の2番歌『国見歌』、天香具山に登って国見をしたという歌である。
香具山は、藤原宮の東の御門を守ると詠まれた山で、耳成・畝傍と並ぶヤマト三山と呼ばれる山の一つ。香具山を詠んだ天皇は、三人。舒明天皇・天智天皇・持統天皇。
香具山の中腹には、舒明天皇の万葉歌碑がある。本格的に明日香に入った最初の男性天皇であるから、別に不思議ではない。つまり、歴代天皇の宮は明日香にはなかったのである。舒明天皇の祖父の敏達帝は河内長野や桜井に宮があり、陵墓は河内磯長中尾陵である。敏達帝の皇后だった推古帝が蘇我氏との関係で明日香と橿原を宮とし、明日香に女帝の宮が造営されたと書かれている。
推古帝の遺言で大王となった舒明王家にとって、香具山は天降りの山・舒明皇統の始まりの聖地となったので、神聖な氏山として天の香具山と呼んだと思われる。
すると、舒明天皇が「香具山からの国見歌を読んだのは何故か」の答えは簡単に分かってしまった。秘密でも何でもない。もちろん、これは謎でも秘密でもない。ただ、舒明天皇は何処の出身だろうか。
簡単にいうと、舒明天皇はよそ者である。飛鳥の地に侵入して来たから「国見」をしたと、なる。
⑧ 「天皇、香具山に登り国を望む時の御製歌」
2 山(やま)常(と)にはむら山あれど とりよろふ天の香具山のぼり立ち 国見をすれば国原は 煙立つたつ海原はかまめ立つたつ うまし国ぞ蜻(あきづ)嶋(しま)八間(やま)跡(と)の国は
「大和には群がるように山々があるけれど、鳥もよろけるという神の山・天の香具山に登り立ち、国見をすれば国原から煙が盛んに立ち上がっている。海原からはカモメが盛んに飛び立っている。豊かな素晴らしい国であるぞ。あきつしま大和の国は」
足元に広がる国原を見渡す大王の国見歌である。 舒明天皇が詠まれた香具山は神山であるので、この天皇家は香具山を氏の守りの山としたといえる。今でも香具山に登ると山頂に国(くにの)常(とこ)立(たち)命が祭られていて、中腹の説明板『名称大和三山・香久山』には、『(略)天香具山、畝傍山と耳成山、この三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖化され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきました。(略)香具山は伊予国風土記逸文に「天から降ってきた」という伝承が残っており、「天の香具山」とも呼ばれています。万葉集において「天」という美称がつけられた山は香久山だけで、このことから多くの山の中でも特別な位置付けを持っていたと考えられます』と書かれている。
案内板にあった伊予国風土記逸文にある「天から降ってきた」という文は気になる。また、萬葉集の巻一の六番歌の脚に「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはないが、天皇の十一年に伊予の湯に行幸されたことはある」とあり、八番歌「熟田津に」の額田王の歌の左脚に、「御船、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊られた。(斉明)天皇、昔日の物が猶ものこれるのを御覧になり、その時たちまちに感愛の情を起され、その故に歌を作り哀傷された」とある。斉明天皇が亡き夫を想い出して歌を詠んだというのである。舒明天皇と伊予の結びつきは深いのではなかろうか。
⑨香具山の南に造営された寺だが、香具山の南に大官大寺跡がある。舒明天皇が建立したという百済大寺を、神聖なる香具山の南に移したと考えることができる。
⑩「日本書紀」や「大安寺伽藍縁起」などによると、「だいかんだいじ」または「おおつかさのおおでら」と記されている。百済大寺から高市大寺からぢ官大寺に移り、平城京の大安寺へと変遷している。南から北へ中門・金堂・講堂が並び、中門と金堂をつなぐ回廊の中の東部に塔を配する伽藍配置である。
⑪ さて、香具山が神の山であることはわかったが、他の畝傍と耳成はどう読まれているだろうか。
では、巻一にある天智天皇の「三山歌」つまり「中大兄の三山歌」の長歌と反歌をみよう。
中大兄、近江宮御宇天皇の「三山の歌」には脚注がある
「右の一首の歌は、今案ふるに反歌に似ず。ただし、旧本、この歌をもちて反歌に載す。
この故に、今もなおしこの次に載す。また、紀には『天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇の先の四年乙巳(きのとみ)に、天皇を立てて皇太子(ひつぎのみこ)となす』といふ。」
原文では、「畝傍を惜し」を万葉仮名で「雲根火雄男志」と表記されている。故に、解釈が二通りある。
長歌の大意を日本古典文学大系の万葉集では、『香具山は畝火山(男性)を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるらしい。昔もこのようであったから、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるものらしい』となっている。
万葉集釋注では『香具山は、畝傍(女性)を失うには惜しい山だとして、耳成山と争った。神代からこんなふうであるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取り合って争うのであるらしい』と解釈し、両者は男女が入れ替わる読み取りになっている。読みの都合上(男性)と(女性)の言葉をを挿入してみた。
中大兄のこの歌は本来二人の男性が争ったのか、二人の女性が争ったのか、気になるところであるが、中大兄の歌で見逃せないのは、三山を擬人化していることである。これは、たとえて遊んでいるのではなく、現実を表現しているはずである。
⑫ つまり、三山に象徴される氏族があり、中でも香具山を神山とする新興勢力が政権を握っており、同じく耳成山を神山とする新興勢力と対峙している。そして、畝傍を神山する伝統的王族を取り込むことで権力が強固なものになろうという歌の意図なのだ。香久山は、畝部山一族の姫を妻に迎えようと耳成山と争っているのである。古代の権力の組み替えは、伝統的王家の血筋の娘を手に入れることで決まったというのだ。
たしかに、中大兄が額田王を大海人皇子と争ったという説がある。額田王は初め大海人皇子との間に娘をもうけ、後には天智帝のもとに仕え挽歌まで奉っている。すると、畝傍山に象徴される姫は額田王というのだろうか?
(更に、15番歌は反歌として他者が付け加えたとされている。「渡津海の豊旗雲に」の歌は堂々としていて、これほどの歌を詠める歌人は誰なのか様々な説があるが、額田王詠歌という学者もいる。古典文学大系は大意を「大海の豊旗雲に入日の射すのを見た今夜は、月も清かに照ってほしいものだ」と、三山の争いが終わったので、海神がたなびかせた豊旗雲を見た印南国原の神は晴れ晴れとした気持ちになったというのだ。が、三山歌の反歌として「わたつみの豊旗雲」は不釣合な気もする。
また、この歌の題「中大兄、三山の歌」であるが、何故か「皇子」の文字が欠けていて、御製歌とも書かれていない。これは、中大兄皇子がぞんざいな扱いを受けたということか。または、「長子という立場をあらわす大兄(古人大兄皇子)」の次という「二番目の長子」という意味と位置を「中大兄」が表しているだけなのか…)
⑬藤原宮の西に畝傍山。この山を神山とする氏の姫を迎えることが重要だと、「三山歌」には詠まれている。
⑭創建時の伽藍の大きさが想像できる礎石群。本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった。本薬師寺は「元薬師寺」とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺)に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている(ネットでは上記のように紹介されている)
⑮耳成と香久山が争った畝傍山。では、畝傍姫とは誰なのか?
本薬師寺は、薬師寺が平城京に移動した後、11世紀まで残った。この寺が、持統皇后の病気平癒の為に建てられたのなら、その人は畝傍山の所縁の姫である。
なぜなら、現在は基壇しか残されてはいないが、その基壇は畝傍山と直線で結ばれるからである。本薬師寺の東西の塔は畝傍山の山頂と並ぶ。将に、畝傍の姫を争ったのは誰と誰なのか。(想像がつきますね。畝傍の関係氏族は、東西の太陽を祀る人々だったと考えられる。)
今日は⑮までとします。
畝傍姫が持統天皇を意味した地すると、かなり意味深です。しかし、わたしには納得の答えです。では、明日は耳成山について⑯から紹介します。