額田王は草壁皇子のために寺を建立した
壬申の乱後、近江京で天智天皇に仕えていた額田王は、夫(大友皇子)を亡くした娘と明日香に帰って来ました。飛鳥で額田王はどんな生活をしていたのでしょうか?
(額田王が弓削皇子に応えた歌・古を恋しく思う鳥は、それは霍公鳥でしょう。その鳥はきっとわたしが昔を懐かしく思うように懐かしそうに鳴いたのでしょうね。)
天武七年(678)十市皇女の突然死で額田王は苦しんだと思いますが、「深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後はその遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させた。」と、粟原寺の塔の露盤に刻まれた文字で読めるようです。
草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立
草壁皇子のために粟原寺を建立した人物(比売朝臣額田)は、額田王でしょうか。
額田王は天武帝の皇子にも尊敬され、藤原氏とも交流があったようです。額田王は粟原寺の露盤銘に残る名の比売朝臣額田なのでしょうか。
漢文の内容は、次の通りです。
①この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。
➁この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。
③和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。
④この功徳により仰ぎてお願いすることは、皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。
⑤七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。
以上ですが、草壁皇子のために造営したと書かれています。甲午年は持統八年(694)で和銅八年(715)までの22年間かけて造られました。(持統八年の十二月に、藤原宮に遷都します。新益京(しんやくのみやこ=藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都だと云われています。)
額田王は斉明天皇の紀伊国行幸に従駕し、有間皇子の事件にも直面したであろう万葉集を代表する歌人で、粟原(おうばる)寺には額田王の終焉の地という伝承があり、跡地に案内板が建てられていました。江戸中期に談山妙楽寺(今の談山神社)から三重塔の伏鉢(国宝)が発見されましたが、それはもともと粟原寺にあったものでした。伏鉢には銘文があり、建立の経緯が刻まれていたのです。銘文の冒頭を紹介しましょう。
此粟原寺者、中臣朝臣大嶋、惶惶請願、奉為大倭国浄御原宮天下天皇時、日並御宇東宮、故造伽藍之、爾故 比売朝臣額田、以甲午年始、至和銅八年、合廿二年中、故造伽藍、而作金堂、及造釈迦丈六尊像…
「この粟原寺は、中臣大嶋が、大倭国の浄御原で天の下知ろしめした天皇の御代の、日並御宇東宮(草壁皇子)のために寺院の建立を発願したが、(持統七年に大嶋が死亡したので、大嶋の遺志を継いだ)比売朝臣額田が持統八年から寺の造営を始め、二十二年かけて和銅八年までに伽藍と金堂を造り、釈迦丈六尊像を完成させ…」、和銅八年四月には三重塔と七科露盤を造ったというのです。大嶋は発願しただけで死亡し、あとは比売朝臣額田がやり遂げたというのですが、財力が有ったのでしょうか。
粟原寺露盤銘には、「日並御宇東宮」と彫られています。「御宇東宮」は、草壁皇子に対する他の文献の表記とは明らかに違います。万葉集では、日双斯皇子命・日並皇子尊・日並所知皇子命。続日本紀では、日並知皇子尊・日並知皇子命・日並知皇太子。東大寺献物帳では、日並皇子。七大寺年表所引竜蓋寺伝記では、日並所知皇子。粟原寺露盤銘の「御宇・東宮」は、外に類例がないそうです。ここに、中臣大嶋と額田王のなみなみならぬ思い入れが見えますね。
甲午年(694)は、大安寺縁起によると「飛鳥浄御原御宇天皇のために金剛般若経一百巻が奉られた』年であり、この年に額田王は中臣大嶋から粟原寺建立を引き継ぎました。
中臣大嶋は藤原大嶋ともいい、同一人物で、藤原の氏を天智天皇から許されたのは「鎌足」であったとして、藤原不比等の子孫以外の藤原氏は、持統三年以降中臣氏に戻されたという経緯があり、大嶋も中臣姓に戻っていました。
藤原の姓を奪われた中臣大嶋の遺志を継いだ額田王が、草壁皇子の菩提を弔うために二十二年も掛けて丈六尊像と伽藍を完成させたと書かれていますが、そうであれば和銅八年(715)の額田王は相当な年齢となりましょう。それも近江王朝の最後まで仕えた女性で、一人娘の夫である大友皇子を倒した天武朝の皇太子のために、命の限りを尽くして寺院を造ったというのです。果たして、そこにどのような事情や縁があるのでしょうか。草壁皇子の母である持統天皇も、十市皇女の二番目の夫だった高市皇子も、草壁皇子の一人息子の文武天皇も、完成時には全て鬼籍に入っていました。誰に遠慮もいらないし、死者に義理を立てる必要もないのです。では、比売朝臣額田とは額田王ではないのでしょうか、このように疑うと、額田王以外の誰が何のために草壁皇子を弔うのかとなって、いよいよ分からなくなるので、ここは額田王かゆかりの人物以外にはないだろうとなります。
では、中臣大嶋と額田王は何ゆえに草壁皇子の菩提を弔おうとしたのか、その答は一つしかありません。
額田王は草壁皇子の本当の父親を知っていたからです。それが故に、草壁皇子の菩提を弔った。もちろん、天武天皇ではありません。中臣大嶋にとっても忘れられない恩人でした。
大嶋の父は許米(こめ)、祖父は中臣糠手子(ぬかてこ)。糠手子は、中臣御食子(みけこ)と国子の兄弟であり、御食子の子が鎌足、孫が定恵と不比等です。父の中臣許米には中臣金という兄弟がいて、壬申の乱で斬刑になった中臣金は許米の兄、大嶋の伯父で、中臣金は天智朝の右大臣になりました。鎌足の死後、天智帝は中臣金を引き上げたのです。中臣金は身を尽くして仕え、それが故に壬申の乱後に斬られました。当然、大嶋が大王と仰ぐのは、天智帝でしょう。粟原寺建立は、大嶋の伯父の中臣金を弔う意味もあったでしょうが、天智朝の敗将を弔うのははばかられたでしょうから、それをカムフラージュするために草壁皇子の菩提を弔ったとも考えられます。それにしても、自分の一族を破滅に追い込んだ王朝の皇太子を弔ったという不思議、実はそこにも本意があったと思うのです。
額田王と中臣大嶋をつなぐ赤い糸は、天智天皇でした。草壁皇子の父は、この帝です。草壁皇子が天智帝の忘れ形見だったからこそ、大嶋と額田王は力を尽くして寺院を建立しました。共に、密に近江朝を想い続けていたのです。天武帝は「吉野盟約」後の養父であったとすれば、万葉集の疑問のかなりの部分が解決します。
生前の草壁皇子は自分の出自を知っていたがゆえに、天武帝崩御後に即位できなかったか、「天武朝は高市皇子と大津皇子に引き継がれるべき」と考えていたと思うのです。大津皇子も同じように「天武の血統が皇位を継ぐべき」と考え、天武帝も「大津皇子、朝政を聴く」と書紀にあるように、大津皇子に期待をかけていたとしか読めません。しかし、持統皇后は許さなかった。謀反(壬申の乱)により大王位についた王家の血統に皇位を渡したくなかったのです。だから、大津皇子の謀判は思い付きではなく熟慮の結果だったのに失敗してしまったのでした。真相を知る人は、どれほど悔やみ悲しんだか知れません。
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首
165 うつそみの 人にある吾れや 明日よりは 二上山を いろせと吾が見む
166 磯のうえにさける馬酔木を手折らめど 視すべき君が 在りと言わなくに
天武朝の真の後継者を刑死させてしまったと、苦しんだ草壁皇子は母の思いを十分に承知していながら、即位しなかったのでした。以後三年間、兄の高市皇子と皇位を譲り合っていたのでしょう。草壁皇子死して翌年、持統帝の即位となり、高市皇子が太政大臣となりました。こうなれば、孫の軽皇子(文武帝)が成人するまでに、高市皇子は薨去しなければなりません。これが、持統帝に藤原不比等が接近した理由でしょう。天武帝の皇統に極位を渡してはならないと、藤原氏は常に天智朝の腹心の部下であり続けました。
全てを知りつつ、草壁皇子は薨去しました。まるで、仁徳帝と皇位を譲り合ってついには自殺した宇治若郎子のようではないかと、額田王は思い出したに違いありません。宇治若郎子の話を、そして、有間皇子の悲劇を。「あの秋の野の草を刈り取って旅の宿りとなさった有間皇子の仮廬を思い出す、この世で最後の仮宮を。宇治の若郎子のような運命をたどった有間皇子と草壁皇子の凛々しい姿を」宇治若郎子の物語を重ねて、有間皇子と草壁皇子の悲劇を詠んだのでした。
7 金野(あきの)の 美草刈葺き やどれりし 兎道のみやこの 仮廬し念ほゆ
額田王は天智帝の葬儀後に明日香に帰っても、亡き天智帝を想い続けていました。生涯をかけて天智帝を愛し続けたのでした。歌に詠まれた霍公鳥は、亡き帝の霊魂にほかなりません。
111 古に 恋らむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 吾が念へるごと
この歌の意味はここで完結するのです。人麻呂は、この歌の背景を十分に知って万葉集に掲載したのでした。
また明日