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54持統天皇の孫、文武天皇の仕事・八角墳への改葬

2017-03-27 15:38:38 | 54持統天皇の孫、文武天皇の仕事

持統天皇の孫・文武天皇の仕事

持統天皇元年(686)は、天武天皇崩御年であり、大津皇子と山辺皇女の没年です。持統帝が即位したのは草壁皇子が没した年の翌年(690)でした。つまり三年間は空位で、持統称制となっています。皇太子が決まっていたのに空位とはおかしなことですから、様々に憶測が飛ぶのです。

文武天皇の即位は高市皇子薨去の翌年(697)で、二月に立太子、八月即位となっています。高市皇子の薨去から一年後に即位したのでした。

この時、軽皇子(文武天皇)の立太子に対して弓削皇子(大江皇女と天武天皇の御子・長皇子の弟)が異議を申したてました。弓削皇子の目には軽(文武天皇)の立太子は尋常ではなかったのでしょう。自分の兄の長皇子の方がはるかに後継者としてふさわしいと思ったのです。

考えてみると、「軽皇子」は皇子ではなく「王」のはずです。草壁は天皇の皇子でしたが、軽は皇子の子ですから「王」。でも、長皇子は天智天皇の皇女と天武天皇の御子ですし、血統的にはより天武天皇に近いわけですから皇位継承者としてふさわしいと、当たり前の主張をしたのでした。(弓削皇子を叱責して黙らせたのは、十市皇女の子の葛野王です)このことが災いしたのでしょうか、弓削皇子は三年後に薨去しましたし、母の大江皇女もその半年後の薨去でした。

持統十一年(697)、文武天皇は15歳で即位しました。

夫人は藤原宮子でした。

文武は若い天皇でしたから、持統天皇が太上天皇として全面的にバックアップしたのです。ですから、文武天皇の仕事には、持統太上天皇の意思が入り込んでいるのです。その中に、おや? と思う仕事があります。

文武三年(699)の山田寺に封三百戸 それに、越智陵(斉明天皇陵)と山科陵(天智天皇陵)の造営です。

山田寺は祖父蘇我石川麿が無念の最後を遂げた寺です。斉明天皇は天武天皇の母、天智天皇は天武天皇の兄、であれば、陵墓の造営(改葬になります)は当然でしょうか? それにしても、天武天皇が滅ぼしたのは天智天皇の後継者でしたね。その大友皇子の墓を慰霊のために造営したのではありません。持統帝と藤原氏の強い願いによる山科陵の造営と考えるべきでしょう。山科陵は平安京を造営する時、重要な墓となりました。どこが皇居で上賀茂神社で、下鴨神社が何処にあるか、金閣寺が何処か、二条城が何処か、分かりますよね。

ここで、 前に紹介した「持統天皇の最後の願い・火葬と合葬」を思い出してください。持統天皇は真っ白な骨となって、天武天皇陵に合葬されたのです。霊魂がその墓を離れ、未来永劫飛びまわるために。その為の、天智陵と同じ経度で築造された陵墓でしたね。その陵は理にかなった位置にあり、武家社会になった時には その霊力はズタズタにされたのです

陵墓の造営が重要であること、祖先・天皇の墓はその王朝にとって意味があること、お分かりですよね。

 だから、高市皇子(天武天皇の第一子)の墓が高松塚であれば、その墓と文武陵は如何なる関係になっているか。当然、高市皇子の霊力を断つ位置を選んだでしょう。(高松塚古墳と中尾山古墳は南北に並ぶ)

高松塚古墳の発掘以前には、高松塚古墳は文武天皇の墓という伝承がありました。わたしも高市皇子とは思っていませんでした、草壁皇子と思っていたのです。治田神社(草壁皇子の岡宮跡)→高松塚古墳石室→岡宮天皇陵(草壁皇子陵の改葬前の墓)のラインも引けましたから。

高市皇子は、後皇子尊(のちのみこのみこと)と呼ばれましたから、草壁皇子の宮跡とその陵墓に挟まれて眠るのは当然かもしれないとも思います。しかし、です…高松塚古墳は八角形墳丘ではありません。

そして、あろうことか、文武天皇の崩御。持統天皇亡き後の公務が多すぎたのでしょうか。文武天皇陵は、今は天武天皇の真南に比定されていますが、最近「中尾山古墳」(八角形墳丘墓)が改装後の文武天皇陵というのが有力です。その中尾山古墳は、耳成山の真南にあり、高市皇子と耳成山の間です。なぜこの位置なのか?

そのわけは、①耳成山と高市皇子の霊力を受け取ろうとした。または、➁高市皇子と耳成山の霊力を遮断した。…これは、➁でしょうね。

更に、草壁皇子の墓も最近は「束明神古墳」とされています。よりよい子孫の繁栄を願って陵墓を改装したのでしょう。それに、 舒明陵、斉明陵(牽牛子塚古墳)天智陵、中尾山古墳のように、八角形の極位に上ったという墳丘墓の形式に揃えたかったということでしょうか。同じ血統の墓の形式に揃えたかった、と。つまり、それまでの王家や天武系の墓とは一線を引いたと言えます。最近、孝徳天皇の墓は叡福寺の聖徳太子の墳丘墓(八角形墓)という説がありました。そうであれば、孝徳天皇の墓も改葬されたことになるのでしょうか。叡福寺の墳丘が聖徳太子の墓と言う証拠はないそうですからね。

持統天皇の意思が、女帝が文武天皇に伝えたかったことが、陵墓の造営でも分かります。舒明・斉明→天智→阿閇・草壁→文武の皇統と、孝徳 →有間→持統→草壁→文武 の皇統を伝えること。万葉集も同じ意図のもとに編纂されたはずです。

初期万葉集を読む時、このことを頭の隅に置いて読むとよく理解できるのです。

持統天皇の詔(たぶん持統帝から出されていたと思われる)を受けて柿本朝臣人麻呂が編纂した「万葉集」は、文武天皇に奉献されるはずだったと思います。草壁皇子の忘れ形見の文武天皇に「誇りをもって生きるように、草壁の皇統を絶やしてはならない」という意味を込めて、持統天皇が詔を出し人麻呂が応えたと思うのです。ですから、「初期万葉集」の編纂方針は明確でした。

その事は、また後で