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天智天皇の挽歌を詠んだのは、後宮の女性達

2017-10-20 23:15:22 | 66天智天皇の都と挽歌

天智天皇の葬送儀式で詠まれた挽歌

天智帝は大津宮で崩御、そして山科に陵があります。

倭姫皇后の他にも、婦人・額田王・舎人吉年・石川夫人の詠んだ挽歌が残されています。

 天皇の崩(かむあが)りましし時に、婦人(おみなめ)が作る歌一首 姓氏未詳

150 現実のこの世に生きているのだから神となられた大王にお会いすることはできずに離れていて、朝から大王を思って嘆き、離れていてもわたくしが慕い続けている大王、もし玉であれば手に巻き持っていように、衣であれば脱がずに身に着けていように、わたくしが恋しく思っている大王がなんと昨日の夜夢に見えたのです。

  天皇の大殯(大もがり)の時の歌二首

151 こうなると前々から知っていたのなら、天皇の御魂が御乗りになる大御船が停留している泊(水門)に標を結って、舟が出ないようにしたものを… (額田王)

「天皇の船の泊まっている港に標を張って悪霊が入らないようにしたのに」と解釈されてもいますが、わたしは「魂がこの世を離れる時に乗る船に大王の魂が乗り込んで船出すれば崩御となるので、舟が出ないように標を張ればよかった。そうすれば蘇生されたかもしれないのに」という意味だと思いました。

152 この世を統治なさった大王が御乗りになった大御船、その大王の船が帰って来るのを待ち焦がれている志賀の辛埼(そしてわたくしたちです)

154 大王の宮があった楽浪の大山守は、誰のために山に標を結うのだろうか。大王はこの世を去られたのに。

そして、次の155は額田王の歌です。この歌は、既に紹介したでしょうか。

こうして、御陵への埋葬儀礼までの挽歌が残されました。

天智天皇の挽歌は九首も残された!のでした。

病が重篤となった時から倭姫の歌がありましたから、天皇の周りには平癒を願う儀式が行われていたのでしょうね。そして、崩御となり天皇の聖体の周りでは儀式が行われ、殯宮の準備が整い、大殯の儀式が行われるということなのですね。長い月日をかけて殯宮がしきたりにのっとって行われ、墳丘が造られ、ついに埋葬となったのでしょう。

天智天皇の場合はこのように儀式の流れに乗って挽歌が残されています。この九首によって大王の葬送儀礼がどのようなものだったか分かったのだそうです。天皇の後宮の女性たちが多く歌を残していると云うことは、葬儀での女性の役目は大きかったのでしょうね。

それにしても、天武天皇より以前の天智天皇の挽歌が多く残されているのは何故でしょうね。

では、また。


天智天皇の挽歌を詠んだ女性たち

2017-10-17 16:52:19 | 66天智天皇の都と挽歌

倭姫太后は、何処へ行ってしまったのか

天智天皇の最後をみとった皇后の、その後の消息は分かりません。何処へ行かれたのでしょう、不思議です。

広い琵琶湖の南の対岸と少し近くなるところに楽浪の志賀の大津京はありました。天智天皇の都です。園城寺の辺りに大友皇子の屋敷があったそうです。

若干の柱跡が見つかっているだけですが、この辺りを額田王も天智天皇も歩いたかも知れませんね。天智天皇は近江大津宮での崩御でした。

御病、崩御、殯宮、埋葬と一連の流れが挽歌として万葉集に九首掲載されています。歌を詠んだのは後宮の女性達でした。なかでも皇后の歌は四首あります。謎の皇后倭姫の歌を読んでみましょう。 

   天皇、聖躬不予(せいきゅうふよ)の時に太后奉れる御歌一首

147 天の原ふりさけ見れば大王の御寿(みいのち)は長く天足らしたり

天の原を振り仰いで見上げると、わが大王の御命ははるかに長く天に満ち足りております

病に臥した天皇の傍で、皇后はその命の長くあることを祈ったのでしょう。しかし、御病は重篤になり天皇の意識は薄れてしまいました。

   一書に曰、近江天皇聖躰不豫(せいたいふよ)御病急なる時、太后奉献る御歌一首

148 青旗の木旗の上を通ふとは目には見えれど直(ただ)にあはぬかも

大王の魂が青々とした木幡の木々の上を行ったり来たりしているとわたしの目には見えます。でも、魂はお体を離れているので、もう直にお会いすることはできません。

木幡の山に風が吹いて木々が騒いでいたのでしょう。木々を震わせて大王は何か伝えようとなさっている、そう思っても既に話は出来なくなっているのです。太后と天皇の深い結び付が偲ばれます。

遂に天皇崩御となりました。皇后はぼんやりと来し方とこれからを考えました。そして、深く天皇を愛していたことを思うのです。

   天皇崩(かむあが)りましし後の時、倭大后の作る御歌一首  

149 ひとはよし思い止むとも 玉蘰 影に見えつつ忘らえぬかも

人は忘れることはあっても、まるで神の依り付く玉蘰のようにあの方の御姿が目の前にちらついて忘れようにも忘れられないのです。

殯宮(あらきのみや)の前でしょうか。皇后は天皇の面影を追っていました。

いよいよ大殯(おおあらき)の儀式が始まりました。近しい者は声をあげて泣き、天皇の蘇りを願います。殯宮は淡海の見える所に造られたのでしょうか。船の歌が続きました。

皇后も船を詠みました。「太后御歌一首」です。

広く大きな淡海の海を、遥かな沖から漕いで近づいて来る船。岸辺近くを漕いで来る船。沖の船の櫂よ、ひどく撥ねないでほしい。岸辺の船の櫂もひどく撥ねないでほしい。私の大切な嬬(夫)の魂が鳥となった、その魂の若い鳥が音に驚いて飛び去ってしまうから。

天智天皇の霊魂は鳥となりました。大王は鳥となり淡海を見ている若い鳥なのです。その神霊を驚ろかしてはならないと、太后は詠んだのです。

ここまで深く天智天皇に仕えた倭皇后でしたが、この後どうなったのでしょう。消息はないのです。

わたしは倭皇后はこの後も生き抜いたと思います。この後もいろいろあったことでしょうが。

倭皇后の人生は、人麻呂歌集の中にしっかりと読み込まれているのではないかと、わたしは思っているのです。

万葉集は天智天皇の挽歌を九首残しています。持統天皇が勅によって人麻呂に編纂させたのなら、人麻呂は女帝の意思を十分に承知して天智天皇の歌を掲載したことになりますね。持統天皇にとって天智天皇は懐かしく恋しい人だったのですね。

では、また。


ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった

2017-10-15 22:56:28 | 66天智天皇の都と挽歌

ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった

明日香が霊魂の都「飛ぶ鳥の明日香」となったように、近江の大津も霊魂の都となりました。

「ささなみ」は琵琶湖西南の沿岸一帯の地名だそうです。地名としては滅びても枕詞として使われていると、古語辞典に書かれています。

「ささなみ」のという枕詞で始まる歌は、万葉集中に十一首あります。

巻一、巻二までは誰が詠んだ歌か分かりますが、巻七~十二までは「羇旅歌」などで作者名はわかりません。巻一の31の「ささなみの」は「左散難弥乃」と漢字があてられています。

ですから、楽浪・左散難弥・神楽浪・佐左浪。神楽聲浪の漢字が「ささなみ」に与えられているのです。

この中で、石川夫人と置始東人(おきそめのあづまひと)の歌は挽歌です。石川夫人(いしかわのぶにん)が天智天皇の殯宮の時に詠んだ歌ですし、置始東人は弓削皇子のために詠んだ歌です。二人の歌の「ささなみ」には「神」が付け加えられて「神楽浪」となり「霊魂漂う楽浪」の意味を負っているのです。

神となった霊魂はもちろん天智天皇なのです。

ささなみに「」が付くか付かないかで、枕詞の意味は大きく違ってきます。「楽浪という土地」ではなく「あの近江朝のあった楽浪」となったり、「今は亡き天皇の京があった楽浪」となったりするするのです。「楽浪」は、歴史の重みというか、滅びた王朝の物語を引き出してしまう言葉なのです。枕詞には十分意味がありました。

神楽浪の枕詞を冠した歌を読みながら、琵琶湖の湖岸に立つと何とも哀しくいにしえに心惹かれるではありませんか。

次回は、この地で生涯を終えた天智天皇の挽歌を詠みましょうね。