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『六義園記』注解(島内景二著)が紹介する『六義園記』の序文

2018-09-28 23:47:22 | 78柳沢吉保は万葉集編纂の意味を知った

『六義園記』注解では、「柳沢吉保が幕府歌学方・北村季吟(または、その高弟)の指南のもと、六義園記を書き上げた意味と、その思い」を丁寧に紹介されていました。今日は、その「序」の紹介です。

元禄15年(1702)江戸駒込の地に造営された六義園は、大名庭園の最高傑作です。この庭園・六義園を造営した柳沢吉保は、「犬公方」と呼ばれた五代将軍綱吉に仕えた側用人で、名前の「吉」を将軍から拝領したほどの寵臣でした。わたしも子どものころから時代劇映画やテレビでその名前を知っていました。なにしろ「赤穂浪士」事件が起きた元禄14年時の将軍と寵臣ですから年末恒例のテレビ番組では必ず耳にする名前だったのです。彼を演じたのは常に悪役を得意とする俳優でしたから、子ども心に良い印象は持っていなかったと思います。

 しかし、その柳沢吉保が六義園を造営した…それだけで彼に対する評価は変わろうというものです。

六義園には八十八カ所の名所が作られましたが、その理念を宣言し「八十八境」として名前の由来を記したものが『六義園記』です。元禄文化が花開いた江戸初期の文化的背景を見ることもできるし、当時の権力層がどのようなものを愛でたのか知ることもできましょう。

その本を分かりやすく紹介した本が、島内景二著の『六義園記』注解で、今回、興味深く読ませていただきました。

『六義園記』注解の始まりを少し紹介するのですが、本文は著者により「漢字交じりの読みやすい文章」に翻刻されていますし大意もありますので、大体の意味は分かります。また、島内氏の「六義園記」に対して詳しい解説もあるのですが今回は紹介していません。が、『本文と大意』を注解の中から取り上げましたので、柳沢吉保の造園の意図をくみ取って読んでください。

 

本文① 「道は、人によりて弘まる」、異国(ことくに)の往にし教へ、すでに然なり。「境は、名を持て伝ふ」、大和歌の古き習わし、また同じ。

 大意 「中国の古い教えに在るように、道はそれを正しく受け止め、その素晴らしさを他人に語り広める人間がいて、初めて広まる。同じように、我が国古来の道である和歌のテーマである「境=名所・歌枕」も、その美しい場所の評判を語り伝え、歌い継ぐ人がいて、初めて後世まで伝えられるのである。」

 

本文➁ この故に、根も心の土に寄すれども、必ず三つの聖(ひじり)の培い植ゑし教えを借りて、枝葉繁り、盛りなることを得たり。

(三つの聖とは、柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫(そとおりひめ)のことです) 

大意 「和歌の根は歌を詠む一人一人の心の土にしっかりと下しているのだが、それが枝葉を茂らせて美しい花を咲かせるためには、必ず「和歌三神」が育んで植え置いた古来の教えを借りることが必要なのである。」

 

本文③ 跡を口の碑に留むとも、もし八雲の光遍(あまね)き護りにあらざらましかば、いかでか山川と共に、長く久しかるべき。

 (スサノウが歌った「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」が『古今集』仮名序で人間界で詠まれた最初の和歌とされている)

大意 「昔こういう素晴らしい人がいたとか、昔こういう美しい場所があったとかが、たとえ人々の伝承として語り伝えられたとしても、もしもすべてを守護し、すべてを永遠のものに昇華させる和歌の広大な光に守護されるのでなかったらのならば、どうして地上の存在物は、悠久な天地のような永遠性を獲得できるだろうか。」

 

*本文④と大意は略(将軍に仕え政治に成果を出し、歌の道にも精進したことなどが書かれている)

 

本文⑤ 遂に、駒込の離れたる館に就きて、いささかに和歌浦の優れたる名所を写す。

それ、妹の山・背の山の混成(まろかれ)たる、あり。常盤・堅磐の動きなき、あり。朝日・夕日は、山辺・柿本の深き味はひを含めり。

山を見、浦を眺むる、彼と此との妙なる言事(ことわざ)を通はせり。山と松は、新しきと古き相成りて、窮(きは)まりなきなり。泉と石とは、心と言葉の、同じく出でて、二つ無きなり。

玉を拾ふも、藻を採るも、等しく紀氏の流れを汲み、梅の雲も、桜の波も、共に長き秋の門にありけり。

 大意 「とうとう和歌への思いが高じて、江戸城から遠く離れた駒込の下屋敷に連接させて、少しでも紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立った。ここには、世界のすべてが込められている。

だから、この『六義園』という庭には妹山や背山のように、柔らかく丸い名所があるかと思えば、『常盤・堅磐』のように、固く不動の名所もある。『朝日岩』や『夕日岡』は、和歌三紳のうちの柿本人麻呂と山辺赤人の、それぞれの倭歌の味わい深い趣を表している。

妹背の山を見たり、和歌浦の眺望をながめたりしていると、『仁』と『知』の二つの理念が交響しつつ体現されているのが理解できる。また、庭園内に設けられた山や松の名称には、新しい(若い)ものと古い(老いた)ものとが共存しており、老ては若返る『無窮』の理念を表している。庭園内の石や泉は、それぞれ『心』と『言葉』を象徴しているが、心から言葉が溢れ出し、言葉に表れたものが心そのものであるから、心と言葉は一体のものであることを、庭園の石と泉の配置は示している。

八十八境の中に数えられる『拾玉渚』と『玉藻磯』は、この庭園の理念が紀貫之や藤原俊成の流れを汲んでいることを明示し、同じ八十八境の中に数えられる『雲香梅』と『桜波石』は、この庭園の理念が藤原俊成の門弟たちの流れ、すなわち「古今伝授」の伝統と密接に繋がっていることを表している。」

 

本文⑥ 或は、藤原の昔を、蜘蛛(ささがに)の道に訪ね、或は楢(=奈良)の葉の古(いにしへ)を、千鳥の跡に見る。仏法(のり)の教への文字あることは、わが道の広く覆ふなり。漢詩の言葉あることは、わが恵みの遍(あまね)く至るなり。春・夏・秋・冬の面白き、大いに備わり、松・竹・亀・鶴の珍しき、悉く全(まつた)し。

八十八の境の梗概(あらまし)は、述ぶべけれど、お、種々(くさぐさ)のありさまの詳しきことは、何としてか尽くさまし。

元の名を聞きては、その所を彼の国に縮(しじ)むるかと疑われ、今の構えを見ては、その昔をこの文に勘(かうが)へたることを、明らかにせまし。

大意 「この六義園では、『和歌三神』の一人である衣通姫が住んでいた藤原京の昔を、『蜘蛛の道』に訪ねることもできるし、『万葉集』が編纂された『奈良』の帝の昔を、『千鳥の橋』の近くの『時雨の岡』に立っている『楢』の木で偲ぶこともできる。

八十八境の中に、『坐禅石』などのように、仏教に因んで名づけられた名所があるのは、吾が国の和歌の道が仏の教えと通じているからである。また、八十八境の中に、『剡渓流』のように、漢詩文に因んで名づけられた名所があるのは、わが国の和歌の恵みが、遠く異国まで及んでいるからである。八十八境には、『春・夏・秋・冬』の四季折々の美しさが、すべて揃っているし、また、『松・竹・亀・鶴』という、おめでたく珍重される動植物も、完璧に備わっている。

全部で八十八ある名所の概要だけならば、何とか述べられもしようが、その一つ一つの詳細な説明と描写は、どうして今、ここで全てを書きつくすことができようか。

この六義園八十八境のネーミングの由来となった地名を聞くと、その異国にある名所を元々の国とそっくり同じで、大きさだけを縮小して、この六義園に再現したものかと疑われる。また、現在、目の前に広がっている六義園八十八境それぞれの姿を見れば、その銘所が元々は、どのような形であったかという考証を、この『六義園記』で明らかにしたいと思われてならない。

 

本文⑦ 「ああ、浦は、すなわち大和歌なり。ここに遊べるものは、この道に遊べるなり。園はこれ、六種なり。ここに悟れる人は、この理(ことわり)を悟れるなり。

 今、この事の起こり、豈、ただ、君の恵みを目の当たりに誇るのみならんや。神の跡を後の世に垂れまく思ふ故、心の種を筆の林に寄せて、口の実を文の園生(そなふ)に結ぶと言ふこと、然なり。

大意 「ああ、この六義園に写された和歌浦は、実は『和歌』そのもののシンボルなのである。だから、この六義園に遊ぶ人は、和歌の道に遊ぶ人である。この六義園には、儒教の理念を漢詩で謳った『詩経』の『六義』、それを紀貫之が日本風に変型して『古今集』の仮名序で説明した『六種』のすべてが、具現されている。だから、この六義園で詩歌の本質を悟る人がいれば、その人は『六義・六種』の道理を悟る人である。

 今、この六義園を造ろうと志した初心は、決して不肖吉保が将軍綱吉様の御恩顧を蒙っていることを誇示したいからだけではない。『和歌三神』がこれからの時代にも姿を現し、人間世界を守ってくださることを祈って、心に思うことを種として、筆に乗せて文章を書き綴り、口にする言葉を文章として結実させたかったのである。

それが、この『六義園記』一巻の成立事情である。

 

 と、上記のように六義園記の序に書かれています。島内氏は、「古今集」の歌の秘密や奥の意味を伝えた「古今伝授」を念頭に「六義園・注解」を書かれました。柳沢吉保に深くかかわった北村季吟(幕府歌学方)は、もともと京都の新玉津島神社の神官でそこに住んでいたそうです。

彼が吉保に伝えた「古今伝授」は、紀貫之に始まり藤原俊成を経由した和歌の系譜「本流=正統」であることを言据えています。(「古今伝授」は、あの徳川家光でさえ伝授を断られた一子相伝の和歌の秘密事でした。)吉保はそれを北村季吟から授けられていたのでした。

季吟が京都で暮らした「新玉津島神社」は、藤原俊成の旧宅の跡と伝えられていたことを、季吟は考察しています。 

 さて、いよいよ紀伊国の「玉津島神社」と衣通姫に近づいてきました。

 では、この辺で。


柳沢吉保も知った有間皇子と間人皇后の物語

2018-09-07 22:50:54 | 78柳沢吉保は万葉集編纂の意味を知った

 江戸時代になっての話ですが、側用人柳沢吉保(1658~1714)が徳川五代将軍・綱吉に仕えたのち隠居して六義園という庭園を駒込に造りました(1702年)。「回遊式築山泉水」の大名庭園です。

江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治になり三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。その後、岩崎家より東京市に寄付され、昭和28年に国の特別名勝に指定された文化財になっています。

「六義園記」は、『大名庭園の最高傑作・六義園の理念を高らかに宣言し、「八十八境」と呼ばれる名所のネーミングの由来を記したものである』ということです。この「六義園記」ついて注釈を加えた本がありますから、現代の私たちも柳沢吉保の名文に触れることができます。

この庭園は散策しながら源氏物語の世界や万葉集の世界を偲ぶようにできていていますが、庭園の中心に造営されたのは、富士山でも嵐山でもありません。池にしても琵琶湖でも須磨でも宇治川でもないのです。

庭園の中で一番高い築山は標高35mありますが、庭園を一望できる藤白峠です。一番高い築山が藤白山でした。わたしは深く心ゆすぶられました。柳沢吉保はやはり只者ではなかったのだと思いました。側用人としての気を抜けない年月の後、和歌の世界を偲んだ庭を造ったのです。それも、万葉集の真意を悟ったのです。

万葉集は何を伝えようとしたのか、たくさんのインテリに囲まれてはいたのでしょうが、理解したのですね。

当時の人々も、池をめぐり山を登り、藤白峠で古の物語と歌の謎解きをしながら万葉集に浸ったのです。

万葉集の中で藤白が出てくるのは一か所だけで、「藤白坂」のみです。和歌山県海南市藤白から海草郡下津町橘本に超える坂ですが「藤白のみ坂」と書かれた其処は、有間皇子が追っ手により刑死となった地なのです。

  藤白のみ坂を越ゆと白栲のあが衣手はぬれにけるかも

藤白の坂に「み」が付いていますから高貴な方にまつわる「坂」ということですが、「その坂を越える時、あの方の運命を思い出してわたしは涙を流してしまうのだ」という歌です。この歌を詠んだのはだれか、または詠ませたのは誰かということですが、この歌は、持統天皇と文武天皇の大宝元年行幸時の「紀伊国行幸十三首」のうちに有りますから、二人の高貴な方に献じた寵臣の歌に他なりません。

万葉集中にただ一首しかない地名「藤白坂」を庭園に取り入れたのですから、有間皇子事件を彷彿とさせる仕掛けになっているのです。柳沢吉保は万葉集について十分に理解していたか、彼の取り巻きのインテリ学者たちが吉保に万葉集を解釈し感動させたということになりましょう。

六義園に造られたのは藤白山ばかりではありません。紀ノ川(吉野川)からその河口の和歌の浦や玉津島が表現されていますから、まさに万葉集の王家の悲劇の物語がたどられているのです。

六義園については、また明日。