大津皇子を愛した女性達
夕闇に飲まれていく二上山。天武陵から見ると、夏至の陽は二上山に沈みます。天武帝と大津皇子を結ぶのは「夏至の日没と冬至の日の出」のラインなのです。意味深だと思います。
さて、今日は、大津皇子を愛した姉の大伯皇女の歌です。万葉集と云うと、持統天皇・有間皇子の歌と、この大伯皇女の歌が紹介されますね。大津皇子事件を詠んだ歌でもあります。
父の天武帝の殯の中に大津皇子は密かに倭を抜け出しました。伊勢の斎宮の姉に逢いに行ったのです。大事を姉には伝えたかったのでしょう。二人の仲は緊密でした。母亡き後、お互いに頼りにしていたのですね。
伊勢神宮の斎宮であった大伯皇女は弟の決断を聞いて不安を覚えました。しかし、弟を伊勢に留めるわけにはいきません、殯宮の最中ですから。大伯皇女が弟の思いを聞いた後、急ぎ倭に帰した時の歌が万葉集巻二にあります
直に話をしたからこそ、事の重大さを知ったからこそ、弟が立ち去った後も立ち尽くした、その心情が溢れた万葉集の傑作ですね。
105 吾背子を倭へ遣ると小夜深けてあかとき露に吾立ち濡れぬ
夜中になって弟を倭に行かせてしまった。今、ヤマトへ遣るのは危険なのにあの子を行かせてしまった。あの子の姿が闇の中に消えても、夜が明けるまで露に濡れながらわたしは立ち尽くした。
106 二人ゆけど行き過ぎ難き秋山を如何にか君が独り越ゆらむ
秋が深まると山も寂しく二人で歩いても心細いのに、そんな行きすぎがたい山中をあなたは独りで越えて行く。何を思いながら独り山を越えて行くのか、あなたのことが思われる。
そして、悲劇は起こりました。姉は斎宮の任を解かれて倭に帰って来ました。
163 神風の伊勢の国のもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
神風の吹く伊勢の国に居ればよかったのに、何であなたもいないヤマトに帰って来たのだろう。こんなことになるなら、あの時あなたを止めればよかった。
164 見まくほり吾する君も有らなくに何しか来けむ馬つかるるに
もう一度逢いたいとわたしがあれほど思った貴方もいないというのに、何のために帰って来たのだろうか。斎王の行列の多くの馬も人もただ空しいだけ。
165 うつそみの人にある吾や明日よりは二上山をいろせと吾見む
現在わたしはこの世にこうして生きているのに、ただ一人の弟は死んでしまってこの世にはいないと思うと毎日が空しい。あの二上山に改葬された貴方は倭とわたしを見守っているだろうから、せめて、明日よりはわが弟と思ってわたしもあの山を見よう。
166 磯の上にさける馬酔木を手折らめど視すべき君が在りと言わなくに
春になって馬酔木の花が磯の上に咲いている。その白い花房を手折ってあなたに見せてあげたいのに、あなたの霊魂がこの世に留まっているとは誰も言ってくれない。馬酔木の花ですらあなたの霊を慰めることができないなんて。
これらが、後の人の歌物語として作られたという説もありますが、そうだとしても、大津皇子と大伯皇女堅い絆を伝えようとしたのは確かでしょう。大津皇子事件は多くの人の心に残ったのです。誰もが大津皇子に深く同情したということですね。
万葉集には大津皇子と石川郎女の歌が在り、大津皇子が大胆な青年であったと紹介しました。大津皇子の妃は、山辺皇女です。蘇我赤兄(天智帝の左大臣)の娘、常陸娘と天智帝の皇女でしたが、大津皇子の刑死の時、裸足で駆け寄りともに殉死しています。その髪振り乱して走って来て共に死ぬという姿に、見る人は泣いたというのです。二人が死んだので他はみな赦されました。すると、二人の死が事件解決の道(大津事件の目的)だったのですね。
この悲劇は、起こるべくして起こりました。
大津皇子は、天武帝の第三子とされています。年齢では高市・草壁・大津の順です。
ですが、皇位継承者は何より高貴な皇統を継ぐ人であることが重要でした。
『玉たすき 畝傍の山の橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと栂の木の いや継ぎ継ぎに天の下…』ですから。母方の血統も大事でした。
高市の母は宗形氏、草壁と大津は蘇我系の皇女。実際の皇位継承の対象は、草壁と大津にしぼられていたことでしょう。当然、取り巻きはどちらかについてひそかに牽制しあいました。
大津皇子は天武帝に愛されたと書紀にも書かれ、帝王学も学び、朝政を聴き、十分に学問も積んでいました。なのに、大津皇子が破れた。条件的にもダントツだったのに、敗れたのです。同じ蘇我系の皇女が生んだ持統皇后の子、草壁皇子に。
なぜに大津皇子が死なねばならなかったのかを考える時、皇位継承者としてどちらが有力だったかを考えざるを得ません。草壁皇子が本当に皇太子だったのか、大津皇子は「皇太子に対して謀反」したとされていますが、そうであればライバル大津は刑死し皇太子はいるわけですから空位にせず即位したはずでしょう。しかし、草壁の即位は在りませんでした。
皇位継承者の大津を死なせて良かったのか、その不満は天武系の皇子達王子達の間に残りました。
この先、皇位継承に関して異議を申し立てたり、謀反の罪を着せられたり、謀反を起こしたりで、落命した人物はかなりの数に上りますが、全て天武系の皇子や王子達です。そのスタートが大津皇子でした。
この話は、後で