3・有間皇子謀反事件・有間皇子自ら傷みて、松枝を結ぶ歌二首
学生の時、古文の時間に暗記させられた歌に「有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌」がありました。まあ、なんとなく寂しい歌だとは思いましたが、有間皇子には無実ながら刑死するという運命が待ち受けていることや、謀反事件の陰謀にからめとられた人の歌だと、話には聞いてもそれなりに 聞き流していたのです。
今になると、いろいろと思うところがありますね。
紀伊国に出かけました。有間(ありまの)皇子(みこ)の悲劇を辿り、謀反事件を考え直すための旅でした。
有間皇子は、大化の改新の後に即位した36代孝徳(こうとく)天皇の皇子(おうじ)です。母は左大臣・阿倍倉橋麻呂の娘、小足媛(おたらしひめ)でした。
孝徳天皇の皇太子は、大化の改新で蘇我入鹿(そがのいるか)を斬った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)となっています。そうであれば、有間皇子が謀反事件を起こしたのは何故でしょう。
万葉集巻二の「挽歌」の冒頭歌
141 磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
岩代の濱松が枝を引き結び真幸きくあらばまた還り見む
142 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
家に有れば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
141 岩代の松は深く岩の間にも根を下ろしている。その松の枝を結んで、わが命の永からんことを祈ろう。この松のように無事で命があれば、わたしは再び還って松を見る。見たいのだ。
142 本来なら家にいて、きちんとした笥に飯を盛り神に祈るのだが、今は旅の途中でしかも捕らわれの身だから椎の葉に飯を盛るほかはない。それでも、椎の葉に飯を盛って神に命の永からんことを願うのだ。
有間皇子は、書紀によれば19歳の青年とされています。それにしても、堂々とした詠歌です。この皇子が藤白坂で刑死した…藤白神社は斉明天皇の建立とされています。斉明天皇としては、弟の忘れ形見である有間皇子の死が辛かったというのでしょうか。命を奪ったのは、自分の子である中大兄皇子です。
有間皇子謀反事件は、いわば骨肉の争いだったのです。半年前に建王(たけるおう・中大兄皇子の息子・8歳)を亡くして、斉明天皇は嘆き悲しんでいます。いつまでも忘れないようにと、歌を作らせています。
それにしても、有間皇子の歌は「挽歌」の冒頭に置かれているのです。初期万葉集は「雑歌・相聞・挽歌」という大きな部立(ぶたて)が有り、歌が分けられています 。雑歌(くさぐさのうた)は、いろいろな儀式歌を中心にしています。巻一には「挽歌」は有りません。巻二に到って、初めて「挽歌」が掲載されています。その冒頭歌が、有間皇子の「挽歌」です。というより、まだ生きている当事者が自分を傷んで詠んだ歌です。
挽歌のようで、挽歌ではありません。しかし、有間皇子の歌は挽歌として編集されている。万葉集を編纂した人物の意志や意図がそこにはあるのです。
また明日。