草壁皇子の突然死に舎人たちは嘆く
(治田神社は岡寺の前にある。発掘により礎石と基壇が見つかっている。ここが元の岡寺という)
草壁皇子がどんな病で亡くなったのか、書紀には書かれていません。その薨去に対して責任を取ったものもいません。ですが、舎人は深く嘆いています。「舎人等かなしびて作る歌二十三首」これが葬送儀礼としての挽歌だとしても、たくさんの情報があるはずです。何処に住んでいたのか、何処でなくなったのか、どんな生活だったのか、どんな期待があったのか。
さて、詠んでみましょう。
①高照らすではなく、「高光る」日の皇子だから、直接統治をした人ではなく、皇族のひとり。「高照らす」は統治者を飾る詞。嶋の宮で国をおさめられるはずだった。
➁住まいは嶋宮である。そこには池があり、鳥を飼っていた。
③殯宮は佐多の岡に作られ、陵墓は檀の岡に作られる。
①舎人たちは草壁皇子がずっと元気に御殿に居られると思っていた。
➁皇子の御殿は御門も柱も大きかった。が、今は人もいなくて物音もしない。
③皇子は遊猟が好きで、狩の毛の衣を着て時を選んでお出かけになった宇多の大野を心から偲んでいる。
④陵墓をつくる人々が通る道を殯宮への道として舎人も通っている。陵墓は貧窮の近くに作られている。
草壁皇子は病弱だったのでしょうか
草壁皇子の挽歌・舎人が詠んだ反歌二十三首が並んでいました。
173 高光る わが日の皇子のいましせば 嶋の御門は荒れずあらましを
174 よそに見し 檀の岡も 君ませば 常つ御門ととのいするかも
183 我が御門 千代とことばに栄えむと 想ひてありし 吾し悲しも
191 毛衣を ときかたまけていでましし 宇田の大野は 想ほえむかも
皇子を「日の皇子」と尊び、墓所となる「檀の岡」はよそ事だと思っていたのに宿直することとなってしまって、「我が主人は千代に栄える」と思っていた自分が悲しい。狩の装いの毛衣を着て、宇多の大野にお出でになった時のお姿が忘れられない…と読めますね。皇子は元気だった…狩が好きな健康な人だったのでしょう。
やはり、突然の薨去だったのです。
皇子の死は人麻呂の歌のように「天皇の敷きます国と 天の原岩戸を開き神上がり上がりいましぬ」(ここは天皇の治められる国だからと、自ら天の原の岩戸を開けて神上がりされ亡くなられた)という言葉から、尋常な病死などではなく、自死だったと思われます。
では、自ら死を選ぶ理由は何でしょうか。そこに皇位継承の問題が絡んでくると思うのです。大津皇子事件とのかかわりです。
もうひとつの草壁皇子と大津皇子との関係はどうでしょうか。石川女郎を二人で争ったとされています。これも、また明日。
(板蓋宮の想像図・持統天皇はここで政務を取っていた。)
女帝はひとり息子の死をどう受け止めたのでしょう。