27 人麻呂が宇治若郎子の宮跡を訪ねて詠んだ歌
巻九の「挽歌」の冒頭に、人麻呂歌集の五首が置かれています。
人麻呂歌集の歌は、人麻呂自身の作歌だという研究成果があります。
万葉集・巻九の挽歌の冒頭歌
大宝元年(701)紀伊國行幸は、巻九にありました。冒頭から有間皇子を偲ぶための編集になっていました。
同じく巻九の挽歌の冒頭の五首は、「右五首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出る」と説明されています。もちろん、人麻呂自身の歌です。
『宇治若郎子の宮所の歌一首』と『紀伊国に作る歌四首』のあわせて五首です。
宇治若郎子の宮所を詠んだ人麻呂
宇治若郎子の宮所の歌一首
1795 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬待つの木は古人見けむ
いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ
愛するあの子のもとへ「今来た」という意味になる今木の嶺に、茂り立っている松の木は、嬬(つま)を「待つ」という意味の松の木であろうが、此処に住んでいた古人もこの松を見たのであろうか。
おや?
宇治若郎子は仁徳天皇の弟でしたね。
応神天皇の末子で、仁徳天皇と極位を譲りあった末に自ら命を絶つという悲劇の人。有名な自殺した皇太子の話でしたね。そして、此処には松が詠まれているのです。
これは、挽歌の冒頭です。
仁徳天皇の弟の宇治若郎子の宮所とは、何処でしょう。仁徳天皇は時代がかなり上り、日本書紀の記述で見ると4世紀となります。卑弥呼の少し後の時代です…?
人麻呂はそんな古い時代の宮所の松を詠んだのでしょうか?
宇治若郎子自身の歌は日本書紀にも万葉集にもありません。
書紀によると、宇治若郎子は皇太子でしたが即位せず、三年間も兄と極位を譲りあい、ついに亡くなったのです。不自然でしょう。
この物語を踏まえて、人麻呂は「宇治若郎子の宮処」の歌を詠んだのです。ここに挽歌の意図が込められているのです。三百年以上も前の話を歌に詠んでも構わないと思うのですが、ここは挽歌です。いにしえの皇子のために挽歌を詠むには、無理があります。
人麻呂は具体的に誰かのために詠んだのです。
誰のために?
皇太子でありながら即位できなかった。身内により皇位を奪われた皇子である宇治若郎子。誰かに似た状況ではありませんか。そう、有間皇子に、よく似ています。
有間皇子事件を宇治若郎子になぞらえて、人麻呂は挽歌に詠んだのです。
ここは、あの方がお住まいになっていた宮処だが、もうあの方はおられない。今木の丘に松が茂り立っている。愛しい人の許へ来たという「今来」という名は今となっては空しいが、今木の丘の上に……。松の木さえ、あの方を「いつまで待つ松の木」であろうが、あの松をあの方もごらんになったのだ。
(宇治若郎子・兄のために自ら命を絶った悲劇の皇太子。ああ、あの方の運命に似ているが、松を見るとあの方を思い出す。)
宇治若郎子は、難波天皇(仁徳天皇)の弟です。歴史上に難波天皇はもう一人おられます。それが、 有間皇子の父君・孝徳天皇です。難波天皇というキーワードが、宇治若郎子と有間皇子をつなぎました。どちらも理不尽にも命を奪われた皇太子として。
人麻呂は十分に意識して、宇治若郎子の宮所を詠んだのでした。
また明日