5 有間皇子は罠にかけられたと、日本書紀は認めている
有間皇子は、中大兄皇子の策に落ちた。中大兄の命を受けた腹心の部下・蘇我赤兄に騙されたと、誰もが知っています。日本書紀は隠さず、堂々と赤兄の罠とその手口が書いています。事件の真相を、書紀の編者は本当に隠さなかった? 書紀に書かれていることは、本当でしょうか。
謀反は大罪です。死罪です。有間皇子の家臣の塩谷連鯯魚(このしろ)は、捕らえられて紀伊温泉に連行された後、藤白坂で斬刑となりました。皇子について来た舎人の新田部連米麻呂も、藤白坂で斬刑となりました。家臣が極刑となっているのです。皇子は絞殺でした。しかし、守君大石(おおいわ)と坂合部連薬は、上野国と尾張国に流刑になりましたが、ほどなく許され天智帝の許に活躍しました。
彼らは、中大兄(天智帝)に内通していたのでしょう。このことは書かれていませんが分かります。赤兄は中大兄皇子の腹心の部下でした。天智天皇の許で左大臣にまで上り詰めています。
有間皇子事件(日本書紀)
斉明四年十一月三日。
留守司(るすのつかさ)として天皇行幸により留守となる皇居や都を守る官となっていた蘇我赤(あか)兄(え)は、有間皇子に語り掛けた。「天皇の政事には三つの失(あやまち)があります。大倉を建て民から税として財を取ったこと。長い渠を掘って公の食料を浪費したこと。船で石を運び積んで丘としたことの三つです」
有間皇子は赤兄が自分に好意を示したことに、欣然として答えた。「この年になって初めて、兵をあげる時が来た」
五日。有間皇子は赤兄の家に行き、謀をめぐらしていると、脇息が自然に折れた。そこで、不吉な兆候だとして、二人は誓って謀を中止した。皇子は家に帰って床に着いた。*脇息とはひじかけのこと
その夜、赤兄は物部朴井連鮪(えいのむらじしび)を派遣し、宮殿造りの丁(よぼろ)を率いて、有間皇子の市経(いちふ)の家を囲ませた。
赤兄は、すぐに駅使を遣わして天皇の許へ奏上した。
まんまと赤兄の罠に捕らえられた有間皇子。
この時、大化改新の功労者は中大兄皇子と藤原鎌足を残して誰もいませんでした。孝徳天皇の重臣は
陰謀や病気で没し、有間皇子を守れる者はいなかったのです。
塩谷連鯯魚(このしろ)は、孝徳天皇の政権下で、大化二年に東国国司の功過で従順と認められ褒賞されている忠臣でした。皇子には忠臣ですから、当然、殺されるでしょう。
岩代の結松の海岸から海を見ました。ここで最後の夜をすごした有間皇子は、牟婁の湯に護送されるのです。
この海の左奥に白浜があります。その牟婁の湯に天皇と皇太子の中大兄が待っていました。
皇太子は自ら有間皇子に問います。「何ゆえに謀反するのか」
有間皇子は答えました。「天と赤兄と知っているでしょう。わたしは何も知らない。」
果たして、有間皇子は幾つだったのでしょう。三十過ぎの皇太子との会話です。
そして、十一月十一日、中大兄は丹比小沢連国襲を遣わして藤白坂で絞殺したのです。
ここで命を失ったのは、有間皇子ひとりではありませんでした。このことを知った当時の人は、どう思ったでしょう。
有間皇子に家族はいなかったのでしょうか。妻も子供もいなかったのでしょうか。もし家族がいたとしたら、ただでは済まなかったでしょう。忠臣も殺されました。 皇子について来た舎人も殺されました。その無念は明日 書きましょう。
有間皇子の歌は、巻二の挽歌二首のみです。それでも、すべての挽歌の冒頭歌になっています。大事に扱われているのです。
皇子に家族がいたのかどうかですが、わたしは、家族がいたと思います。