間人(たいざ)という町を知っていますか?
日本海側の漁師町です。そこで行われるお祭りは、「間人皇后をカクマッタことを誇りに思い、そのことを忘れないために」続けているそうです。
間人(はしひと)皇后とは穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后なのだそうです。
蘇我物部戦争(仏教を取り入れるか否かを争ったという戦争)の難を逃れた穴穂部間人皇后を間人(たいざ)の人々がお世話した、という伝承。
このことを誇りに思って、間人皇后を忘れないように地名を「間人(たいざ)」とし、祭りを続けてきたという町なのです。
でも、何か、落ち着きが悪いですね。
「間人(はしひと)皇后を守った」という伝承は、ほんとうに用明天皇の皇后だったという穴穂部間人皇后(聖徳太子の生母になります)にまつわることなのでしょうか。
わたしは、孝徳天皇の皇后だったあの間人皇后に関わる話ではないかと、思えてならないのです。
だって、穴穂部間人皇后の家族は、聖徳太子をはじめ皆が蘇我氏側について戦争(587年)に参加しています。母の間人皇后のみが逃げたのでしょうか?
用明天皇(585~587年在位)の在位は短く、586年からご病気でした。
病気だったかもしれない夫の用明天皇を残して皇后が逃げる……不自然です。
587年 蘇我馬子、敏達皇后を奉じて穴穂部皇子を殺す(6月)
物部蘇我戦争(7月)崇峻天皇即位(7月)
蘇我物部戦争は仏教に関わる宗教戦争というより、皇位継承の争いだったのではないでしょうか。(憶測ですが)
では、間人(たいざ)の話に戻りましょう。
間人(はしひと)皇后は、用明天皇の皇后ではなく、孝徳天皇の皇后だったのではないかと思うと、わたしはいいました。
間人皇后(中皇命)は有間皇子を追いかけて、紀伊温泉まで行きました。そして、有間皇子は藤白坂で追っ手に追いつかれて殺されました。その傍に中皇命はいなかったのでしょうか。
有間皇子は「われは全(もはら)知らず」と答えて、中大兄の前を去っています。しかし、追っ手がかけられました。
藤白坂で追いつかれ、皇子は従者とともに殺されました。その惨事を中皇命が知らずにいたとは思えません。「わが背子」と詠んだ人が殺されたのですから。
中皇命は、牟婁の湯から戻った有間皇子を迎えたのではありませんか? そうであれば、皇子の最後を知った後、どうなったのでしょう。
中大兄の妹ではありますが、前天皇の玉璽を預かった中皇命という立場です。
中大兄に従わなければ、身の安全は保証されないでしょう。でも、中皇命(間人皇后)は逃げたと思います。何処へ?
もちろん、日本海側の間人(たいざ)へ。
わたしにはそう思えてならないのです。間人皇后の話が、平安時代の聖徳太子伝承の拡散と盛り上がりに支えられて、その母の穴穂部間人皇后の話にすり替わったと、思えるからです。
だって、
穴穂部間人皇后は逃げる意味がないのです。馬子は既に敏達皇后(推古天皇)を奉じているのですから。馬子は穴穂部間人皇后には何の期待もしていません。しかも、物部蘇我戦争(587)のすぐ後には皇后ではなくなり(天皇崩御)、やがて田目皇子の妃になっているのです。義理の息子の妃になった女性なのです。
588年、崇峻天皇即位。592年、馬子は東漢直駒に崇峻天皇を殺させました。
592年には玉璽は敏達皇后に渡ったのでしょうか。推古天皇が即位しました。
上記のような状況では、穴穂部間人皇后はわざわざ日本海側に逃げる必要はなかったのです。間人(たいざ)の人々も「かくまった」ことを大きな務めを果たしたと誇りにくいでしょう。
でも、玉璽を預かった孝徳天皇皇后の間人(はしひと)なら、追われている状況で大変な緊張感があり、大変な秘密だったと思うのです。守り通したという誇りも芽生えたことでしょう。
そこは匿う力を持った氏族の支配地だったのかも知れません。間人(たいざ)に隠れて間人皇后は玉璽を守ったのでしょう。そのために、玉璽がなくて中大兄は即位できなかったとは考えられないでしょうか。
この中皇命(間人皇后)の決断と行動を万葉集は称えているのです。
気になる万葉集の冒頭歌・巻一
万葉集は不思議な歌集です。
冒頭歌・作者の歌の並び・歌の順番・使われた漢字の意味・歌われた時期と事件のかかわり、などなど、隅々まで意味深です。
その中で、巻一の「冒頭歌の並び」をおさらいしましょう。
万葉集が誰のために編纂されたのか、何が書かれているのか、とても大事なことです。万葉集は歴史の大切な事実を伝えたかったと思うのですが、ある高貴な人(たぶん平城天皇)により編集の手を入れられて、その事実がストレートに伝わらなくなっていると、わたしは思っています。
間人(はしひと)皇后に関わる物語もその一つでしょう。それは間人(たいざ)という地名ともあいまって、わたしたちにはミステリーのように思えます。
長くなるので、今回はここまで。
万葉集冒頭の歌の並びには編纂の意図が見え隠れしていますから、その事を再度考えましょうか。また。