気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

武市皇子の男子・長屋王の悲劇・その2

2017-07-20 16:05:13 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件を悲しむ歌

神亀六年二月、長屋王の理不尽な賜死

父の死を嘆いた倉橋部女王・残された家族でした。

長屋王と共に死を強要されたのは吉備内親王とその子供たちで、他の女性との子ども達は残されました。とはいえ、ゆくゆくは有力男子の命を断たれていくのですが…

では、長屋王の死を傷む歌を詠みましょう。

巻三「神亀六年己巳、左大臣長屋王が死を賜りし後に倉橋部女王の作れる歌一首

441 大皇(おおきみ)の命かしこみ 大荒城(おおあらき)の時にはあらねど雲隠ります

大皇のお言葉をかしこんで承り、今はまだ殯宮(あらきのみや)などを建てる時ではないのに、わが父・長屋王は雲の彼方に逝ってしまわれたのです。(倉橋部女王は長屋王の娘です)

次に「膳部(かしわべ)王を悲傷する歌一首」

442 世間(よのなか)は 空しきものとあらむとぞ 此の照る月は満ちかけしける

世の中とはどうにも空しいものだと、この照る月は教えているのだろう、満ちたりかけたりしながら。それにしても、あの若い才能ある王子がお亡くなりになるとは、あまりに悲しい。

歌の後に、「右一首、作者詳らかならず」と脚があります。

誰が膳部王の死を嘆いたのか

(長屋王の室・吉備内親王の幸せを願った元明天皇は既に没していて、元正天皇には妹を救うことはできませんでした。)

膳部王(長屋王の長子)の死を嘆いた歌の作者不詳ですが、上の歌を詠んだのは身分のある官人で、役職もあった人でしょう。その名を明らかにはできない人だったと、わたしは思います。膳部王はこの事件がなければ、次の天皇だったかも知れないからです。官人としては、時の権力者を批判することはできなかったでしょう。

個人的には、「世間は空しきものと」の歌を詠んだのは大伴旅人だと思います。旅人の歌のなかに上の一首に非常によく似たものがありますから。または、旅人の近親者でしょうか。この時、家持はまだ子どもですから、作者は大伴家持ではありません。

それに、旅人は長屋王派だったといわれています。それが故に藤原氏によって大宰府に帥として遣られ、旅人が都を離れている間に長屋王事件は起こりました。長屋王の賜死を知った旅人はどう思ったでしょう。

都からの思いがけない知らせを受けて「いよいよますます悲しくなった」のではないでしょうか。

万葉集巻五の冒頭には「大宰帥大伴卿、凶問に報いる歌一首」があります。

793 よのなかは空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり

大伴氏は代々武人の家系でした。大将軍として旅人もふるまっていたと思われます。

七二〇年、征隼人持節大将軍として九州にも来ています。大宰府の帥になったのは最晩年になります。大伴旅人は大伴安麻呂の第一子です。大伴安麻呂と藤原鎌足は従兄弟でした。

旅人の妹の大伴坂上郎女は、藤原麿の妻でもありました。麿は藤原不比等の第四子ですから、大伴氏としては、藤原氏を批判することは難しかったしできなかったでしょう。

しかし、旅人としては長屋王とその家族の悲劇を悲傷せずにはおれなかったと思います。ですが、武人である以上、愚痴など誰にも言えず、酒を飲んで酒の力で泣いたのだと思うのです。

長屋王を罠にかけた権力者を嘲笑し、何もできない自分を情けないと酒の力で泣いたのでしょう。中学生の頃に、恩師からこの歌を紹介されたわたしは「なんて恥じな大人だろう。酒飲んで泣くなんて」と好きになれませんでした。ですが、

今は、この歌を読むと切なくなるし、泣けてきます。

348 生ける者 遂にも死ぬるものにあれば このよなる間は楽しくあらな

349 黙だおりて賢しらするは酒飲みて 酔い泣きするに尚しかずけり

万葉集の大伴旅人の歌を詠むと、雄々しく生きようとした男の悲哀が偲ばれます。

793 よのなかは空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿