41・大津皇子の流涕して作らす御歌
大津皇子は若く賢く父の帝の期待を背負っていました。妻は蘇我赤兄の娘(常陸)と天智天皇の間に生まれた山邊皇女でした。草壁・大津・高市の三人は、すべて正妃は天智天皇の娘です。それも蘇我氏系の皇女でした。この事実は三人が選ばれた特別の存在だということを示します。しかし、大津皇子は死なねばならなかった…
天武天皇崩御の前後の記述から分かるのは
朱鳥元年(686)5月、天皇(天武)の病を占うと、草薙劔(くさなぎのつるぎ)の祟りというので、劔を熱田社に安置。
仏法にて病の平癒を誓願。
諸国は主な神社に幣を奉り、天皇の病の平癒を祈念。
「天下のことは全て皇后と皇太子に啓上せよ」の勅。
朱鳥元年とする。(ここで、急に年号が出てきましたが、何故か続きません。)
皇太子・大津皇子・高市皇子に封四百戸(この時期に、三人の皇子に封!?)
9月4日・皇子・諸臣ことごとく川原寺で天皇の病平癒を誓願。
9月9日・天皇崩御
9月11日・殯宮を建てる
9月24日・殯の礼。大津皇子が謀反を起こす
10月2日・大津皇子の謀反が発覚
10月3日・大津皇子に賜死。山辺皇女 (特別な存在だった皇子一人が消える)
万葉集巻三・挽歌に残された大津皇子の無念
大津皇子、死を被(たまは)リし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
416 百伝ふ磐余の池になく鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
右、藤原の宮の朱鳥の元年の冬十月
大津皇子は異母兄弟の草壁皇子と皇位を争って敗れたとされています。朱鳥元年(683)の十月、自邸で死を賜りました。書紀に「皇子大津」と書かれ、罪人としての刑死でありました。
その臨死の歌は『雲隠りなむ』と、いかにも王者らしく凛としています。
彼は、「我身は死しても王者として名を残そう」と思ったのでしょう。大津は自身を極位に上るべき存在だったと思っていたのですから。謀反というより、「皇位継承者」として当然の主張をしたのかも知れません。十分に熟慮を重ねた上の決断だったはずです。
さて、草壁皇子は天武十年に立太子されたと書紀には書かれています。「草壁皇子を立てて皇太子としたまふ。よりて万機を摂(ふさねをさ)めしめたまふ」と。しかし、この時も天武天皇の親政は続いていましたから、皇太子に万機を任せたのではありませんでした。
また、草壁は天武十二年(683)皇太子になったと「本朝皇胤紹運録」にあります。
いずれにしても、天武天皇即位後十年経ての非常に遅い立太子です。吉野盟約(天武八年)で草壁が皇太子と約束されていたのなら、天武十二年は遅すぎです。十四年没の天武帝にとっては最晩年ですから、皇太子を決めるのが遅くなった理由があるでしょう。
また、書紀の「天武十二年」には、大津皇子「朝政を聴く」と書かれています。本朝皇胤紹運禄の草壁の立太子が正しければ、同じ年の「朝政を聴く」の大津皇子との二人の立場が微妙になります。
天武天皇としては、大津皇子に極位への道を用意しておきたかったのではないでしょうか。太田皇女の忘れ形見ですから。
よく考えると、「朝政を聴く」には大津皇子の皇族内の位置が明確に表れています。彼こそ皇太子候補で、天武天皇の嫡后の第一皇子だったのではありませんか…大津の母は太田皇女ですから。持統天皇の姉という太田皇女が嫡后だったことは十分に考えられることです。
父も母も失った大津皇子が無念の死を遂げたのは、父の死後ひと月のことでした。
彼の慟哭は風の音となり、今もわたしたちに届いているでしょう。
さて、鵜野皇女(持統天皇)は嫡后ではなかったのでしょうか? この話はあとで。
これらの出来事のことごとくを、草壁皇子は承知していました。もちろん高市皇子も承知していたでしょう。草壁・大津・高市は特別な位置に在りましたから、三人は天武天皇の本音も承知していたでしょう。草壁と高市が大津皇子の皇位継承の可能性を考えていたなら……この事件は見過ごされたでしょうか。
草壁皇子としては大津を認めてもよかったと思います。大津皇子は姉にも相談し、決心を固めていた。しかし、事は謀反とされ、大津皇子は死を賜った。その決断を下したのは、高市皇子となりますね。
天武帝の期待した大津を死なせてしまったこと、その死を草壁皇子が苦しまないはずはありません。皇太子でありながら即位しなかった大きな理由は、ここにあると思います。
草壁皇子は責任を感じたのです。大津皇子謀反事件、 このことが、草壁皇子の心を縛り、即位を拒否したのではないか、と思うのです。
草壁皇子は苦しんだ挙句、高市皇子に皇位継承を託しますが、母が承知しません。群臣と母と高市皇子の取り巻き勢力の板挟み、母との三年間の軋轢を経て、ついに…皇子は自ら命を絶ったと思います。
だから、書紀の草壁皇子薨去の記述は短く、何の付け加えもありません。万葉集の挽歌も「高市皇子の挽歌」より短いのです。人麻呂が崇拝する持統帝の息子の挽歌を粗末にするわけはありません。
彼は、あれ以上書けなかった。
悲しすぎて、悔しすぎて書けなかったのです。だから、草壁皇子の舎人の挽歌は延々と続きました。これが、私が日本書紀と萬葉集から読んだことです。
額田王は何を思って草壁皇子の菩提を弔う寺を建てたのか。
石舞台古墳のある明日香の島の荘の何処に草壁の「嶋の宮」があったのか。
義淵僧正も岡寺を建て草壁皇子を弔いました。
では、悲運の大津皇子を弔ったのは誰でしょうか。20年ほど前に二上山に登った時、わたしは山頂近くの墓の前で立ちすくみました。辺りに人はいませんでした。春でしたので桜を見に来た人はいたと思います。
また明日
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