天智天皇を信じた藤原鎌足
(「藤原鎌足と阿武山古墳」吉川廣文館の挿入写真です。中央が阿武山古墳、鎌足の墓かも?)
この古墳が大きく新聞等に取り上げられたのは、金糸で刺繍されたらしい織冠を頭に置き、玉枕を枕に六十歳前くらいの男性が乾漆棺に眠っていたからでした。新聞では鎌足の墓が見つかったという報道でした。日本書紀によると織冠を授けられた人物は二人しかいません。一人は百済の王子で白村江戦の前に百済に戻りました。もう一人が藤原鎌足でした。
天智天皇より異例の厚遇を受けた中臣鎌足
世にいう「大化改新」とは何だったのでしょう。其々の豪族に支配されていた国を律令国家とする為に、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏を倒して実現したと、そんなふうに教えられませんでしたか? 推古天皇の時に唐に留学した僧や学者が帰国し中臣鎌足は帰国した留学生と律令政治を学び合っていました。僧旻や南淵硝安、高向玄理や軽皇子(孝徳天皇)などと語り合い、蘇我氏を排除した国造りを目指していました。律令による国造りは。経済を握っていた蘇我氏を倒すことから始めなければなりませんでした。
蘇我氏は大臣蘇我馬子以来、政治の中核にあり、蝦夷と入鹿親子の権勢は盤石なものに見えていました。如何に蘇我を倒すかを考えた時、鎌足はひとりの皇子に注目しました。それまで、軽皇子と親しかった鎌足は、中大兄皇子に近づくチャンスを待ったのでした……そこで蹴鞠の場面になるのです。これが、二人の出会いだったという物語ができています。が、要するに鎌足は軽皇子から中大兄皇子に乗り換えたのです。以来、 鎌足は天智天皇の腹心の部下でした。
内臣(うちつおみ)鎌足の病気と死・天智天皇の行幸と恩詔
天智八年(669)十月十日、天皇は藤原内臣の家に病気を見舞う
同年 十月十五日、東宮大皇弟を遣わし、大織冠と大臣と藤原姓を賜う
同年 十月十六日、藤原内大臣が薨去した
同年 十月十九日、天皇が内大臣の家に行幸し蘇我臣赤兄に恩詔を宣べさせ、金香鑪を下賜する
これまでは、内臣(うちつおみ)ですが、これからは内大臣(うちのおほおみ・うちのおほまえつきみ)となり、「内大臣」の官は宝亀八年(777)に、藤原良継に授けられるまで百年以上授与されていません。鎌足は特別の官を得たのです。
*藤原良継は、鎌足→不比等→宇合→良継(鎌足の曽孫)
「日本書紀」には「日本世紀」からの引用文が載せられています。
日本世紀に、内大臣は五十歳で私邸において薨じた。山南に移して殯をした。天はどうして、良くないことに、強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ。碑に『五十六歳で薨じた』という
(*日本世紀は、高句麗の僧・道顕による編年体の歴史書で、日本書紀の基本的資料の一つとなった)
では、天智天皇と中臣鎌足の関係を万葉集で見ましょう。
(鏡王女も安見兒も天皇から鎌足に与えられた女性です)
鏡王女は気位の高い人でした。鏡王の娘で額田王の姉という説もありますが、以前紹介したように鏡王の墓は舒明天皇の陵墓の近くにありますから、舒明帝の皇女という説もあります。
珠(たま)櫛笥(くしげ)は「覆い」にかかる枕詞で、大切な化粧箱だそうです。
93 たまくしげおおいをやすみ あけていなば 君がなはあれど 我が名はおしも
覆いで隠すわけではありませんが、夜が明けてからお帰りになって、貴方の名が人に知れるのはいいのでしょうが、わたくしの名が立つのは口惜しいのです。
鎌足の歌の珠櫛笥は、「みもろ」に掛かります。化粧箱の身と蓋の「み」に掛かるのです。
94 たまくしげ みもろの山のさなかづら さねずはついに ありかつまじし
そうですか。みもろの山の「さな葛(かずら)」のように「さ寝ず」でいいのですか。そうなったら、貴女はとても耐えられないでしょう。
鏡王女は、口惜しかったでしょうね。鏡王女は、もともと天智天皇と恋仲だったのでしたね。二人の歌は既に紹介しています。
天皇、鏡王女に賜う御歌一首
妹が家も継ぎて見ましをヤマトなる大嶋の嶺(ね)に家もあらましを
いとしい貴女の家をいつも見たいものだ。せめて、やまとの大嶋の嶺に私の家があったらいいのに
鏡王女こたえ奉る御歌一首
秋山の樹(こ)の下隠(がく)りゆく水の吾こそまさめ御念(おもほ)すよりは
秋の山の木々の下を流れる水は流れながら水かさを増していきます。その水のように、わたくしの思いの方が勝っております。殿下の御思いよりは。
二人は恋仲というより、鏡王女(683没)は天智天皇の寵妃だったのです。鏡王女の歌は「御歌」とありますから、やはり彼女は皇族でしょう。それなのに、藤原鎌足(669没)に与えられたという…のです。よほどのことですね。
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