夢中人

sura@cosmic_a

仁王

2009年04月15日 | 狂言
「仁王」


博奕打 野村萬斎

何某 野村万之助

参詣人 月崎晴夫 高野和憲 竹山悠樹 時田光洋 岡 聡史 

男 深田博治

後見 野村万作 



博奕で負け続けて、財産もつきてしまった博奕打の男がおりました。
そのは博奕打困って、ある知人に相談すると、その博奕打を仁王の格好にさせ、
仁王が天下ったと触れ回って信心深い人々から供え物を騙し取ろうと提案するんです。
早速仁王の格好をし待っていたところ、期待通り参拝人が次から次へとやってきて、
さまざまな願い事をしては供え物を置いていったんです。
味をしめた博奕打が次ぎの参拝人を待っていました。
参拝人がやってきました。その参拝人はどうやら足が悪い様子。
少しでも自分の足が良くなるようにと、仁王の身体を触りまくるんです。
(どうやら中世では、仏像などに触ってよかったみたいですね。
今じゃ仁王様に触るなんてありえないのにね。この仁王の身体を触りまくるというのは、
自分の身体の悪い部分を治してくれると信じられていたんでしょうね)
偽仁王に触りまくる参拝人。触りに触りまくる。触りに触りまくる。あっちこっち触る。さらに触る。
仁王に扮した博奕打はくすぐったいくすぐったい。あぁ~くすぐったい。たまんないっ。
とうとう、くすぐったさに我慢できなくなった博奕打は動いてしまって、
正体をあかしてしまうんです。
驚く参拝人。まずいとばかりに博奕打は逃げていっちゃいました。
。。。と、こういうお話でした。

私はこのお話に「姿勢」を感じました。
この博奕打はお話の最初から「姿勢」が悪かったんです。それは自分でも感じていたのではないでしょうか。
この博奕打はある知人に相談にいくのですが、この時、どんな気持ちで相談にいったのかなと思ったんです。
本当は、自分の姿勢を正したくて相談に乗って欲しかったかもしれない。
でも、その相談相手は、さらに姿勢の悪い方向へと導いてしまったのです。
どんどんどん姿勢が悪く醜くなっていく博奕打。そうなっているところに現れた足の悪い参拝人。
その参拝人はその偽仁王を本物のの仁王と扱うことで化けの皮をはいであげたんです。
最初はうまくいったけど、そのあとはひどい目にあったと博奕打は思ったんじゃないかな。
もう、仁王になんてならない。。。と、同時にこのままじゃいけない、
自分は姿勢を正さなきゃなと思ってくれればいいなと思うんですけど。。。
でも、少しは反省してくれたかもしれませんね。きっとそうだと思う。
そう思わせてくれたのは、あの足の悪い参拝人のおかげですね。
参拝人がそう思わせた。
私が思うに、あの足の悪い参拝人は本当の仁王様なんですよ。
仁王様は博奕打のことを見ていたんですね。
博奕打の姿勢の悪さが目に付いてしまった。
だから、ちょっと痛い目にあわせて姿勢を正してあげようと思われたんです。

「姿勢」というのは、見た目の姿勢だけではないんですね。
生き方の「姿勢」というのもあるようです。
姿勢の正しい人は美しいといいますが、それは見た目の美しさでだけではなく、
生き方も含まれて言うんですね。

本物のの仁王様に姿勢を正しなさいと言われた博奕打。
そのことに気付けたのならば、姿勢を正していったはず。
そして、そのことがまわりの人々によい影響をあたえ、それらの人々から、真に心のこもった品物が贈られたはず。
きっとそう思うんです。

今回の狂言を見てわかったことは、
多方面の知性や教養を磨くことによって「豊かさ」は生まれるかもしれないし、
「美しさ」は、外見の美しさだけではなく、自分自身の中身の姿勢からも強く感じ取れるものなのかもしれない。
そしてまた、「豊かさ」と「美しさ」はひとくくりになるのかな?
たまたま観たお話が自分が最近気になっていたことと合ったのか、
それとも自分がお話にうつしだされたのかわかりませんが、いろいろ感じとれることができました。
「豊かさ」とはなにか「美しさ」とはなにか、もうちょっと感じていきたいと思います。
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萩大名

2009年04月15日 | 狂言
狂言を観に行ってきました。ああ。。。久しぶりだった。。。

「萩大名」

大名 野村万作

太郎冠者 竹山悠樹   茶屋  深田博治

後見 岡 聡史


長らく在京していた田舎大名がお国に帰る途中で、萩の花が美しいという庭園に
太郎冠者の案内で出かけるんですよ。
で、太郎冠者は、そこの庭主は来客者には、必ず一首所望するということを知っていて、
田舎大名にそのことを教え、さらに、その時に詠む歌まで教えるんです。
しかし、大名は歌に慣れていないのか、その歌をなかなか覚えられず、
太郎冠者は、このジェスチャーをしたらこの部分を詠んでというような感じで
なんとか大名に歌を詠ませようとしたんです。
そして、二人は庭園に入り、庭主に会いました。
そこで、庭主と大名が会話をするんですけど、ぜんぜんかみ合っていない。。。
で、庭主から歌を詠んでくれませんかと依頼があるわけです。
太郎冠者から教えてもらった歌がでてこない田舎大名。
打ち合わせしたようにジェスチャーで教えようとする太郎冠者。
でも、大名の口からはチンプンカンプンな言葉が出てきて、太郎冠者は
あきれて、大名が歌を詠み終える前にどこかに行っちゃったんです。
歌を詠んでくれと迫る庭主。
あせりながらもなんとか思い出し歌を詠み終えた大名。
そして、大名はその場から逃げるように立ち去っていくんです。
。。。と、こんなお話でした。

このお話を観て私は思いました。
この田舎大名は非常にもったいないことをしていると。
だって、大名に歌を詠む知識があったり、また、そこの庭は日本各地の名産品の
砂や岩などなどで創り上げられみたいなんですが、それらの知識も多少でもあれば
その庭主と話がはずんだことでしょう。
そうすれば、もしかしたらその庭主から、その名産品の入手ルートを教えてもらったり、
それらを扱っている人を紹介してもらえたかもしれない。
それをきっかけに自分の領土にもりっぱな庭を創り上げることができたかもしれないんですよ。
このお話の田舎大名は非常にもったいないことをしています。。。
そう、私が最近読ませたいただいた本「竹中式マトリクス勉強法」でいうところの
「人間力を鍛えるための人と人を結ぶ勉強」が足りなかったんです。
この田舎大名は、裁判に勝訴して国に帰ることになったみたいなので、
「人生を戦うための武器としての勉強」は身についていたのかもしれませんね。
でも、それだけでは人生は豊かにはならないんでしょうね。
やはり、勉強をする、教養を身につけるということは、人と人を結びつける潤滑油になるんですね。
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