「ナショナリズムが強すぎる国は必ず滅びる」そんな言葉が耳に残りました。そうなんだ。。。
どちらかというと静かに物を語られる方なんですが、その言葉はなぜかはっきりと聴こえてきました。
ナショナリズムって政治の事が書かれている本を読んでいると、ちょくちょく出てくる言葉ですよね。でも、その定義となると曖昧のような感じです。愛国心に近いような、でもそれとは違うような、アイデンティテーみたいな感じだけれども、それもイマイチ違う時があるような感じでしょうか。でも「国」というのがすごく絡んでいる言葉であることは間違いない。。。ですよね?また「愛」というのも絡んでる雰囲気。で、ここで登場したのが、東京大学院教授の姜尚中さんの「愛国の作法」です。最近「続・悩む力」を発売されて話題になっていますが、あえて今は「愛国の作法」。この本は、ずっと以前に買っていたものなんですが、やはり今が読み時かと思うワケです。
ナショナリズムという場面を感じるのは、だいたいが「集団」ですよね。人間というのは、一人でいる時と集団でいる時の心理は違うと聞きました。本の中に、「この他の人々と社会から見捨てられ、そして自分自身からも見捨てられた人々は、いったいどこに行くことになるのでしょうか。」というハンナ・アーレントさんという方の文章が載っていたのですが、この「自分自身からも見捨てられた人々」というのは、集団心理の中にいるということを言ってるのかなと思いました。集団というか、群集心理って危険な感じですよね。どちらかというと暴力的な方向にいってしまうようなイメージでしょうか。最近では、外国からのニュースで、女の子が誕生日パーティーの招待状を間違ってインターネットに出した所、ものすごい数の人々が集まってしまって、大変な事になったみたいですね。映像で暴力的な場面を観たりしました。あれは、何かの組織?かな、が悪戯したみたいですね。その町の住人の方はもちろん、女の子やそのご家族の方は本当に驚かれたことでしょう。この事は、ナショナリズムとは違うのですが、動きとしては似てるような気もしなくもないかなぁ。本には「理性」のことも書かれてあるのですが、集団でいると、理性心というのが薄くなるのかな。それが、他者にとっても自分にとっても恐怖の所かもしれませんね。
「愛」と言ったら、感情の部分だと思うのですが、「愛する」という行動になった場合は技術が必要になってくるんですね。それは、理論と習練のふたつの部分から成り立っていって、自分なりの直感が得られる。国を愛することや愛国心もこのプロセスを踏んでいく必要があるとありました。
本のタイトルにある「作法」を携帯辞書で引いてみると、①物事を行うときの、慣例となっている方法。しきたり。②起居・動作の手本となる、正しい方式。③詩歌・小説などの、きまった作り方。さくほう。。。ということ。愛国というか、ナショナリズム的なものを見かける時は、「集団」な事が多いかと思うんですよ。ナショナリズムとはそんなものなのかなと思うワケなんですが、とすると「一人ナショナリズム」というのはありえないのかなと思って考えてみたんですけど、ありえなくはないけど、どうかなぁと言う感じでしょうか。例えば、土地を購入したいから寄付を募ると言った場合に寄付金が集まるとか、国債を買うとかもナショナリズムだと思うんですけど、これは一人一人の動きだと思うんですけど、みんな一つの同じものに集まっているんですね。だからこれも集団の力かなと思うんですね。他にも例はいろいろあるのかもしれないけど、やはり「一人ナショナリズム」というのはありえなさそう。あと、ここの所、富士山の清掃登山や海岸の清掃散策ですか、そういうのをよく耳にしますが、それもナショナリズムの一種かなと思うんですね。でもこの場合、モラルのフォローみたいな感じもするなぁ。でも、モラルと言う所からナショナリズムが発生することもあるのかもしれませんね。
こうやっていろいろ考えてみると、日本ってナショナリズムの意識が他の国より低いのかなと思いきや、そうでもなさそうな気がするなぁ。表現の仕方が違うのかもしれないな。ナショナリズムといったら激しい「動」のイメージですが、日本のナショナリズムは「静」な感じなのかな。日本の歴史を振り返ってみるとそればかりじゃないというは明らかなんですが、どちらかというと少ないかもと思うけどなぁ。。。
どちらかというと静かに物を語られる方なんですが、その言葉はなぜかはっきりと聴こえてきました。
ナショナリズムって政治の事が書かれている本を読んでいると、ちょくちょく出てくる言葉ですよね。でも、その定義となると曖昧のような感じです。愛国心に近いような、でもそれとは違うような、アイデンティテーみたいな感じだけれども、それもイマイチ違う時があるような感じでしょうか。でも「国」というのがすごく絡んでいる言葉であることは間違いない。。。ですよね?また「愛」というのも絡んでる雰囲気。で、ここで登場したのが、東京大学院教授の姜尚中さんの「愛国の作法」です。最近「続・悩む力」を発売されて話題になっていますが、あえて今は「愛国の作法」。この本は、ずっと以前に買っていたものなんですが、やはり今が読み時かと思うワケです。
愛国の作法 (朝日新書) | |
姜 尚中 | |
朝日新聞社 |
ナショナリズムという場面を感じるのは、だいたいが「集団」ですよね。人間というのは、一人でいる時と集団でいる時の心理は違うと聞きました。本の中に、「この他の人々と社会から見捨てられ、そして自分自身からも見捨てられた人々は、いったいどこに行くことになるのでしょうか。」というハンナ・アーレントさんという方の文章が載っていたのですが、この「自分自身からも見捨てられた人々」というのは、集団心理の中にいるということを言ってるのかなと思いました。集団というか、群集心理って危険な感じですよね。どちらかというと暴力的な方向にいってしまうようなイメージでしょうか。最近では、外国からのニュースで、女の子が誕生日パーティーの招待状を間違ってインターネットに出した所、ものすごい数の人々が集まってしまって、大変な事になったみたいですね。映像で暴力的な場面を観たりしました。あれは、何かの組織?かな、が悪戯したみたいですね。その町の住人の方はもちろん、女の子やそのご家族の方は本当に驚かれたことでしょう。この事は、ナショナリズムとは違うのですが、動きとしては似てるような気もしなくもないかなぁ。本には「理性」のことも書かれてあるのですが、集団でいると、理性心というのが薄くなるのかな。それが、他者にとっても自分にとっても恐怖の所かもしれませんね。
「愛」と言ったら、感情の部分だと思うのですが、「愛する」という行動になった場合は技術が必要になってくるんですね。それは、理論と習練のふたつの部分から成り立っていって、自分なりの直感が得られる。国を愛することや愛国心もこのプロセスを踏んでいく必要があるとありました。
本のタイトルにある「作法」を携帯辞書で引いてみると、①物事を行うときの、慣例となっている方法。しきたり。②起居・動作の手本となる、正しい方式。③詩歌・小説などの、きまった作り方。さくほう。。。ということ。愛国というか、ナショナリズム的なものを見かける時は、「集団」な事が多いかと思うんですよ。ナショナリズムとはそんなものなのかなと思うワケなんですが、とすると「一人ナショナリズム」というのはありえないのかなと思って考えてみたんですけど、ありえなくはないけど、どうかなぁと言う感じでしょうか。例えば、土地を購入したいから寄付を募ると言った場合に寄付金が集まるとか、国債を買うとかもナショナリズムだと思うんですけど、これは一人一人の動きだと思うんですけど、みんな一つの同じものに集まっているんですね。だからこれも集団の力かなと思うんですね。他にも例はいろいろあるのかもしれないけど、やはり「一人ナショナリズム」というのはありえなさそう。あと、ここの所、富士山の清掃登山や海岸の清掃散策ですか、そういうのをよく耳にしますが、それもナショナリズムの一種かなと思うんですね。でもこの場合、モラルのフォローみたいな感じもするなぁ。でも、モラルと言う所からナショナリズムが発生することもあるのかもしれませんね。
こうやっていろいろ考えてみると、日本ってナショナリズムの意識が他の国より低いのかなと思いきや、そうでもなさそうな気がするなぁ。表現の仕方が違うのかもしれないな。ナショナリズムといったら激しい「動」のイメージですが、日本のナショナリズムは「静」な感じなのかな。日本の歴史を振り返ってみるとそればかりじゃないというは明らかなんですが、どちらかというと少ないかもと思うけどなぁ。。。
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