(前編より)
打上の四辻をそのまま南下。
…と言いたいところだが、50mも進むとあっさり行き止まり。
その先は学研都市線「寝屋川公園」駅前のロータリーと化している。
仕方なく四辻は右折して西に行くしかない。
要するに現代では伊勢奈良道を少しだけ走ることになるんだね。
信号で府道20号に。
ここを左折(南下)。
寝屋川公園駅の裏を通る感じになる。
次の十字路もそのまま直進。
きっと東高野街道は、寝屋川公園駅構内を突っ切って、この辺りで府道20号に吸収される感じなのだろう。
しばらくは道なりに。
1kmぐらいかな?
右手に昔ながらの酒屋さんが目印で、そのすぐ先のT字路となる。
府道はそのまま緩やかに右折なわけで間違えそうだが、実はここを鋭角に左折するのが正解。
そこに立派な石灯篭が建っている。
高さ約3m、「二月堂灯篭」と呼ばれ、1843(天保14)年のものだという。(冒頭写真)
ここからは旧家の軒先を走るようにくねくねしてるからちょっとややこしい。
小さな児童公園があればそこを左折。
地蔵堂が目印。
それを過ぎれば小さな水路のような川に(讃良川)に出会う。
この川が市境になっており、行政区域は四条畷市になるらしい。
その川の手前を右折。
要するに水路&市境に沿って走る。
さっき別れたばかりの府道20号に再び合流。
そのまま府道を南下、つまり四条畷市に入り、すぐにJRの忍ヶ丘駅に出た。
何だか久々の活気を感じるね。
でも街道らしさは全くない。
資料と案内板を確認しながら府道20号でそのまま駅前ロータリーを素通り。
分かりにくいんだけど、左手に内科医院があって、その反対側に車は通行止めになってる小道があってさ。
ここを右折するのが旧街道らしい。
道なりに進めば途中から普通の車道になって、交差点に出る。
右側に立派な焼肉屋があれば正解。
で、この交差点から視線を少し左に移すと、そこに整備された緑道がある。
これが旧街道なのさ。
左手には「蜻蛉池公園」という児童公園。
かつてはそういう名前の池だったんだろうね。
といっても100mにも満たない緑道でね、すぐに公道に吸収され、しばらくは道なりに。
「三徳稲荷大明神」と刻印された石碑があり、ここで右折。
この辺り、曲がり角も多いが、市が設置した案内板が要所要所に建てられており、ありがたい。
またすぐに左折。
右手の立派な「ハコモノ」は、四条畷市市民総合センターなるもので、名前の通り、市民のための複合施設だ。
図書館やコンサートホールがあるようだ。
それを過ぎてまた案内板に導かれて右折。
100m先で左折。
しばらくすると国道163、通称学研都市連絡道路を潜るんだけど、制限高1.8m!
身長173cmのコスモタイガーにはギリギリだ。
背中を丸めて潜る。
潜った直後、分岐してるから右斜めへ。
あとは道なりに進めば、歴史民俗資料館の前に出る。
ここで少し足を止め、見学でも…、という考えもあったんだけど、トレーニング中でね。
汗もかいてるからお邪魔するのは申し訳ない。
それより数分前から雨脚が強くなってきてね。
体冷やさないよう、先に進むとしよう。
そして、予定変更して、どこかキリの良いところをゴールにしよう。
旧街道はすぐ先でコンビニにぶつかり、府道20(旧国道170)へ出る。
左手にある小公園は、和田賢秀なる人物の墓と伝わっているが、ごめん、雨のため写メする余裕もない。
楠木正成の息子、正行の家臣で、この場所で高師直と戦って命を落としたとされる。
しばらくはこの府道がそのまま旧街道ということらしい。
四条畷神社前の交差点に出た。
ここから左の丘陵を登っていくとそういう名前の神社があり、そこから登山道を行くと飯盛山城があるんだけどね…。
戦国武将、三好長慶が一時期天下取りの拠点としたお城としてコアな歴史ファンには有名なお城。
最近の研究で、あの織田信長より先に天下に近づいた人として注目されている人物とお城なわけなんだが、この天候の中、かなりのクロカンになりそうだし。
そもそも旧街道とは直接関係ないし…。
と言い訳してパスする(涙)
さらに1km超走ったかな?
左に分岐する道をやっと発見!
この道は旧街道らしい雰囲気だから、すぐにピンとくる。
ありがたいことに雨は再び小降りになってきた。
約800mほどで左手、野崎まいり公園。
ここに丁寧な東高野街道マップが設置されている。
街道ウォーカーの多くがここを拠点にする人が多いんだろうね。
ってことでコスモタイガーも予定変更して、今日はここでゴールにしておこう。
距離は少し少なめの12~13kmというところだが、この天候では仕方ない。
時計はまもなく15時になろうというところ。
そして50m先の十字路から少し登る形で慈眼寺、通称野崎観音がある。
さらにその奥には、飯盛山城の支城とされる野崎城跡もあるんだけどね。
また雨が強くなってきたからさ、入口だけにして、今日のところは退散しよう。
十字路で旧街道をコースアウトし、西へ向かって歩けば、5分少々でJR学研都市線の野崎駅だ。
降ったりやんだりと落ち着かない天候だったなぁ。
お腹もすいた。
とりあえず社宅に帰ることとしよう。
学研都市線、正確には片町線。
初乗車だからそれはそれで良しとしよう。
そのまま東西線に入り、大阪天満宮駅(南森町駅)で下車すれば社宅はコスモタイガー的には徒歩圏内。
途中で傘か合羽でも買って歩いて帰るとしよう。
打上の四辻を南下、府道(ふどう)20号では不動尊ではなく地蔵堂を目当てに行ったのでした。
高さ約3mもある「二月堂灯篭」は、立派な石灯篭です。
そして、四条畷や野崎観音の地名があらわれて、iinaが大阪時代に懐かしい所が出て参りました。
コロナ禍下に、また第7派となれば街道めぐりも進みづらいですね。
iinaは間隙を縫って山形~福島のめぐりをしてきました。
三好長慶が天下取りの拠点とした飯盛山城、テレビでやっていましたが、四条畷神社から更に山道を上ったところにあるんですね。
大阪の単身赴任生活、今となっては私も懐かしいです。
後半はコロナに振り回され、ガクッとペース落ちました。
もっといろいろ楽しみたかったなぁ。
第7波の現在も、旧街道run封印中です!
少しでも落着くことを願うばかりです。
更家様
そうなんです、東高野街道に関連する書籍は多くはありません。
やはり東海道や中山道に比べると情報量は少ないですね。
ただ、様々なHPによって何とか探し出しています。
ルートとして最も基本になるのは、大阪府のHPの中に設けられている、「歴史街道ウォーキングマップ」になるかと思います。
以下をご参照ください。
https://www.pref.osaka.lg.jp/doroseibi/kakusyusesaku/rekishikaidou.html
ただこれとは異なる諸説もあるようで、その部分は個人で歩かれた方のHPを随時参考にしつつ、という感じになるかと思います。
「白雉3年(652)に飯豊を開山した知道という和尚が、山容が飯を豊かに盛る姿に似ているところから飯豊山と名付けた」といい、縁起には読み方は書いていません。
「いいで」と読む由来としては、新発田市赤谷の湯の平温泉から登る道の「湯出(ゆいで)」から来ているという説があります。
また、4世紀前後の女帝、飯豊青尊(イイトヨアオノミコト)からきている可能性についても研究されているそうですょ。
https://utsukushii-mura.jp/map/iide/
いいですね~。
相変わらずの博識、さすがですね。
そういえば新発田市赤谷、といえば、昔、赤谷線という国鉄路線がありました。
随分前に廃止され、私も未乗のままでしたけどね。
更家様
全ての県を見たわけではありませんが、自分が走ってる旧街道の範囲では、大阪府と三重県は、旧街道に関しては詳しく案内しており、事前リサーチもしやすいですね。