○形容語の意味と無意味に関しての雑感
人は他者に対して、自分の考え方を伝えたいのである。人間存在のあり方の本質はこういうものである。たとえ、人が自己の内奥の真実を裡に秘める必要があったとしても、あるいは、人との接触を極端に嫌悪して、自己の内面にこもってしまったにせよ、それらの現象は、単純な他者との対話を言い表わす形式ではなくても、人は自己の脳髄の中で確実に伝達すべきことを声高に?反芻するというかたちとして現れる。このような思考回路が断絶したとき、それを心の病と呼ぶのである。
さて、人は他者に対して語りかけようとするとき、特定の両極のいずれかの方法で、自己の意思を伝達しようとするのである。その意味では、中間項の概念設定の方が困難なくらいだ。一つは、自分の伝えたきことを、形容語を駆使して何とかその全容を他者に諒解させようとする試みである。当然のことだが、使用言語数は過剰になる。それは過剰なる表現性、過剰なる意図の発露として立ち現れる表現形式である。もう一つは、形容語を極度に意識的に捨象して、表現形式としては最低限の言語で自己の真意を伝達する方法である。こういうことを書くと、誰もが、日本文学の特殊なジャンルとしての短歌を想定するだろうが、僕の意図はそこまで限定的なものではない。表現形式のジャンルを特定する意図もない。単純に形容語を剥ぎとることで、自己の内面の考えのコア-をより鮮明にしようとする試みと捉えてもらえば分かりやすいと思う。
過剰な形容語を駆使して自己の意思を伝達しようとする現象的な現れとして、僕が想起するのはそのチャンピョン的な存在として、現代作家としてはアメリカのトマス・ピンチョンの作品群である。このジャンルに属する数ある作家の中でトマス・ピンチョンを選んだのは、彼の作品の過剰な饒舌が、過剰になればなるほど、作品世界におけるイメージを捉えるのに少なからぬエネルギーを必要とするという意味合いにおいて、現代というとても重層的な時代性を反映していると思われるからである。さらに云うと、彼の作品世界における饒舌さと長大さが、現代社会の構造的理解が難解であるのと同様に、饒舌が過ぎるほどに、作品の内実の理解が難解になるという、アイロニカルな意味を深めるという混迷のありようそのものが、現代的なのである。
これに反して、形容語を極端に剥ぎとった形式の表現方法の代表格は、極論すれば、絵画ではないか、と思う。とりわけ、色彩すらも捨象したデッサンの段階の表現形式に象徴的に現れているのではないか、と思われる。もしも、この形体を文学的世界に求めるとすると、それは短歌ですらない、種田山頭火の作品群ではなかろうか。山頭火の作品は、トマス・ピンチョンと比して、現代という世界像を捉える方法が真逆と云える。山頭火は、形容語を剥ぎとることによって、あくまで読み手の側の感性に鋭く切り込んでくるのである。それは寡黙でありながら、寡黙さが、世界という存在の過剰さを言い表わしているという意味において、これまた、アイロニカルな存在なのである。
論考が抽象的に過ぎたと思われるので、ごくありふれた寡黙さが、過剰とか、饒舌さを言い表わしている例を一つ掲げて、このブログを閉じることにする。
たとえば、一組の恋人どうしの間にいつしか隙間風が吹き始めたとする。それは果たして愛の終焉を意味するものなのか、あるいは単なる愛の過剰による疲労感がもたらした結果に過ぎないのかも知れない。その分析はさておくとして、恋人の一方の側が、途絶えがちな会話を再開するに当たって、ごく短いメールを書き送ったとする。たとえば、その言葉は、「お元気ですか?」でよい。敢えて過剰な愛の空白感を埋めるがごとき濃密な筆致を避けたかたちである。ここには、トマス・ピンチョンの饒舌さはひとかけらもない。「お元気ですか?」という文に、ある日の夕暮時の美しい写真を添付した。さて、この恋人たちが寡黙になった関係性から、愛の豊饒さ、饒舌さをとりもどすには、どのような返信をなすべきなのだろうか?愛の饒舌さを快復させるために、元気な理由を長々と書き綴り、美しい風景写真を褒めちぎり、感謝の意図を伝達するのであろうか?つまり、愛の復権を伝達するべき過剰な言葉を返すことが、必要なのだろうか?たぶん、違う。返信はこうだ。「あなたは?」である。饒舌さそのもののあり方よりも寡黙さによって、饒舌さに勝る表現を返したことになりはしまいか?敢えて形容語を剥ぎとることによって、寡黙な饒舌さを獲得し得たのではなかろうか?トマス・ピンチョンは存在し得なくとも、彼らの間に吹きすさんでいた隙間風は止まるに違いない。今日の観想としたい。
推薦図書:「重力の虹」(Ⅰ)(Ⅱ)図書刊行会 トマス・ピンチョン著 トマス・ピンチョンの過剰な形容語に満ち溢れた饒舌な代表的小説をどうぞ。種田山頭火は、文庫本で楽しめます。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃
人は他者に対して、自分の考え方を伝えたいのである。人間存在のあり方の本質はこういうものである。たとえ、人が自己の内奥の真実を裡に秘める必要があったとしても、あるいは、人との接触を極端に嫌悪して、自己の内面にこもってしまったにせよ、それらの現象は、単純な他者との対話を言い表わす形式ではなくても、人は自己の脳髄の中で確実に伝達すべきことを声高に?反芻するというかたちとして現れる。このような思考回路が断絶したとき、それを心の病と呼ぶのである。
さて、人は他者に対して語りかけようとするとき、特定の両極のいずれかの方法で、自己の意思を伝達しようとするのである。その意味では、中間項の概念設定の方が困難なくらいだ。一つは、自分の伝えたきことを、形容語を駆使して何とかその全容を他者に諒解させようとする試みである。当然のことだが、使用言語数は過剰になる。それは過剰なる表現性、過剰なる意図の発露として立ち現れる表現形式である。もう一つは、形容語を極度に意識的に捨象して、表現形式としては最低限の言語で自己の真意を伝達する方法である。こういうことを書くと、誰もが、日本文学の特殊なジャンルとしての短歌を想定するだろうが、僕の意図はそこまで限定的なものではない。表現形式のジャンルを特定する意図もない。単純に形容語を剥ぎとることで、自己の内面の考えのコア-をより鮮明にしようとする試みと捉えてもらえば分かりやすいと思う。
過剰な形容語を駆使して自己の意思を伝達しようとする現象的な現れとして、僕が想起するのはそのチャンピョン的な存在として、現代作家としてはアメリカのトマス・ピンチョンの作品群である。このジャンルに属する数ある作家の中でトマス・ピンチョンを選んだのは、彼の作品の過剰な饒舌が、過剰になればなるほど、作品世界におけるイメージを捉えるのに少なからぬエネルギーを必要とするという意味合いにおいて、現代というとても重層的な時代性を反映していると思われるからである。さらに云うと、彼の作品世界における饒舌さと長大さが、現代社会の構造的理解が難解であるのと同様に、饒舌が過ぎるほどに、作品の内実の理解が難解になるという、アイロニカルな意味を深めるという混迷のありようそのものが、現代的なのである。
これに反して、形容語を極端に剥ぎとった形式の表現方法の代表格は、極論すれば、絵画ではないか、と思う。とりわけ、色彩すらも捨象したデッサンの段階の表現形式に象徴的に現れているのではないか、と思われる。もしも、この形体を文学的世界に求めるとすると、それは短歌ですらない、種田山頭火の作品群ではなかろうか。山頭火の作品は、トマス・ピンチョンと比して、現代という世界像を捉える方法が真逆と云える。山頭火は、形容語を剥ぎとることによって、あくまで読み手の側の感性に鋭く切り込んでくるのである。それは寡黙でありながら、寡黙さが、世界という存在の過剰さを言い表わしているという意味において、これまた、アイロニカルな存在なのである。
論考が抽象的に過ぎたと思われるので、ごくありふれた寡黙さが、過剰とか、饒舌さを言い表わしている例を一つ掲げて、このブログを閉じることにする。
たとえば、一組の恋人どうしの間にいつしか隙間風が吹き始めたとする。それは果たして愛の終焉を意味するものなのか、あるいは単なる愛の過剰による疲労感がもたらした結果に過ぎないのかも知れない。その分析はさておくとして、恋人の一方の側が、途絶えがちな会話を再開するに当たって、ごく短いメールを書き送ったとする。たとえば、その言葉は、「お元気ですか?」でよい。敢えて過剰な愛の空白感を埋めるがごとき濃密な筆致を避けたかたちである。ここには、トマス・ピンチョンの饒舌さはひとかけらもない。「お元気ですか?」という文に、ある日の夕暮時の美しい写真を添付した。さて、この恋人たちが寡黙になった関係性から、愛の豊饒さ、饒舌さをとりもどすには、どのような返信をなすべきなのだろうか?愛の饒舌さを快復させるために、元気な理由を長々と書き綴り、美しい風景写真を褒めちぎり、感謝の意図を伝達するのであろうか?つまり、愛の復権を伝達するべき過剰な言葉を返すことが、必要なのだろうか?たぶん、違う。返信はこうだ。「あなたは?」である。饒舌さそのもののあり方よりも寡黙さによって、饒舌さに勝る表現を返したことになりはしまいか?敢えて形容語を剥ぎとることによって、寡黙な饒舌さを獲得し得たのではなかろうか?トマス・ピンチョンは存在し得なくとも、彼らの間に吹きすさんでいた隙間風は止まるに違いない。今日の観想としたい。
推薦図書:「重力の虹」(Ⅰ)(Ⅱ)図書刊行会 トマス・ピンチョン著 トマス・ピンチョンの過剰な形容語に満ち溢れた饒舌な代表的小説をどうぞ。種田山頭火は、文庫本で楽しめます。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃