○過剰という概念性について想うこと
書き進める前に、明らかにしておくべきことを書き記す。僕が、過剰という概念性について書き綴るとき、世間知で云うところの、過剰に対する反意語を適度、あるいは適量、または欠如・欠落という概念性を問題にはしないし、また、過剰の反対概念のベクトルとして、このような規定語を想起してしまうと、僕の論考そのものがそもそも成立しないことを明記しておかねばならない。
人間にとって、過剰という概念性は、たぶん生に纏わる不幸と深いところでむすびついている。過剰な愛は、家族愛に関して云えば、多くの場合、愛を与える側も与えられる側も、かたちを換えた互いの依存に陥る可能性が大きい。過剰な金銭は、人の価値観を金銭という基準で推し量ることになり、人間に備わった精神性を見失う。過剰な性は、人間から愛という崇高な思想を奪い取る。このとき、性は、即物的で、人間的な絆の深化の役割を喪失する。また、過剰な飲酒や薬物、過剰なギャンブルへの傾斜がもたらす結末については、もはやここに書き記すこともないだろう。
前記した適度とか適量という概念性はそもそも人間によって、まちまちだし、またその人をとりまく環境によって変化するものであるから、相対的と云えば聞こえはいいが、そもそも規定不能な概念性なのである。人間は規定不能な概念性を耳にしても、心が反応しない。関西弁で云うところの「ぼちぼち」だとか、関西弁という範疇を取っ払った、「そこそこ」という表現を聞いて、感情が動くことはない。もっと根っ子を探ると、人間の感性は、この種の曖昧語を耳にすると、不快感を抱くのだろうが、曖昧語は生活言語として定着しているものが多く、それらの含蓄する毒は薄められて、単なる挨拶語として流通しているだけのことだ。厳しく言えば、この種の生活言語としての曖昧性は、人間の言葉にならない喜怒哀楽の感情表現よりも数段劣ると僕は考える。
ものの考え方として、それでは過剰さと豊饒さとの違いはあるのか、という問いかけは当然にあることだろう。答えは勿論イエスである。私の中の両者の区別は、こうである。
過剰という概念は、常に人間の意識を削ぎ落す。それが負のベクトル、つまりは、不足や欠落という逆立ちした過剰といえども、やはり現象として現れた過剰のかたちとは、意識の鈍磨をともなった不幸なかたちである。それは既述したとおりの現象として立ち現れる。それに対して、豊饒という概念とは、思考のベクトルとしては、常に上向きの、人間にとっての生の可能性を広げる可能性として現れ出ると言っても過言ではない。たとえば、豊饒に纏わる生活表現だけを俯瞰しても、いくつかの表現のあり方から、豊饒という言葉が、新たな価値意識を含蓄していると思われるのである。たとえば、豊饒なる自然であるとか、農作物の豊饒な実り、豊饒な海の恵み等々。これらの言葉には、自然とともに、いや現代においては、世界とともにと言い換えた方が妥当だろうが、常に人間の疲弊しつつある個性に瑞々しい力を吹き込むエネルギーの象徴的な姿が感得できるはずである。
人間は、生きているかぎり、生の平坦さの過程で、豊饒さという明るい可能性に満ちた節目に遭遇する可能性と伴に、言葉のジャンルとしては同じものに分類されるであろう、過剰さという言葉との遭遇の可能性、しかし、概念性としては両者はまったく正反対の、人の生に対する正負の影響力を受けつつ、生のあり方を紡ぎださねばならないのである。人々が、自身や他者の生き方を捉えて、人生に対して前向きだとか、後ろ向きだとかと称する根底には、概念上の過剰さと豊饒さとの桎梏が在る、と考えるべきなのではないか、と僕は近頃思うのである。愚論なのかも知れないが、敢えてここに書き残す。
推薦図書:「エロティシズム」ジョルジュ・バタイユ著。ちくま学芸文庫。生の豊饒と過剰さにこれほど、本質的に拘った思索をなし得た思想家はバタイユ以外にはいないと言っても過言ではありません。バタイユの文学作品から入ると、読み方によっては、生や性に対する不浄な気分を持ってしまう可能性がありますが、やはり、彼の小説の作品群を読む前に、バタイユの思索の深さをぜひとも味わっていただきたいものです。良書だと思います。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃
書き進める前に、明らかにしておくべきことを書き記す。僕が、過剰という概念性について書き綴るとき、世間知で云うところの、過剰に対する反意語を適度、あるいは適量、または欠如・欠落という概念性を問題にはしないし、また、過剰の反対概念のベクトルとして、このような規定語を想起してしまうと、僕の論考そのものがそもそも成立しないことを明記しておかねばならない。
人間にとって、過剰という概念性は、たぶん生に纏わる不幸と深いところでむすびついている。過剰な愛は、家族愛に関して云えば、多くの場合、愛を与える側も与えられる側も、かたちを換えた互いの依存に陥る可能性が大きい。過剰な金銭は、人の価値観を金銭という基準で推し量ることになり、人間に備わった精神性を見失う。過剰な性は、人間から愛という崇高な思想を奪い取る。このとき、性は、即物的で、人間的な絆の深化の役割を喪失する。また、過剰な飲酒や薬物、過剰なギャンブルへの傾斜がもたらす結末については、もはやここに書き記すこともないだろう。
前記した適度とか適量という概念性はそもそも人間によって、まちまちだし、またその人をとりまく環境によって変化するものであるから、相対的と云えば聞こえはいいが、そもそも規定不能な概念性なのである。人間は規定不能な概念性を耳にしても、心が反応しない。関西弁で云うところの「ぼちぼち」だとか、関西弁という範疇を取っ払った、「そこそこ」という表現を聞いて、感情が動くことはない。もっと根っ子を探ると、人間の感性は、この種の曖昧語を耳にすると、不快感を抱くのだろうが、曖昧語は生活言語として定着しているものが多く、それらの含蓄する毒は薄められて、単なる挨拶語として流通しているだけのことだ。厳しく言えば、この種の生活言語としての曖昧性は、人間の言葉にならない喜怒哀楽の感情表現よりも数段劣ると僕は考える。
ものの考え方として、それでは過剰さと豊饒さとの違いはあるのか、という問いかけは当然にあることだろう。答えは勿論イエスである。私の中の両者の区別は、こうである。
過剰という概念は、常に人間の意識を削ぎ落す。それが負のベクトル、つまりは、不足や欠落という逆立ちした過剰といえども、やはり現象として現れた過剰のかたちとは、意識の鈍磨をともなった不幸なかたちである。それは既述したとおりの現象として立ち現れる。それに対して、豊饒という概念とは、思考のベクトルとしては、常に上向きの、人間にとっての生の可能性を広げる可能性として現れ出ると言っても過言ではない。たとえば、豊饒に纏わる生活表現だけを俯瞰しても、いくつかの表現のあり方から、豊饒という言葉が、新たな価値意識を含蓄していると思われるのである。たとえば、豊饒なる自然であるとか、農作物の豊饒な実り、豊饒な海の恵み等々。これらの言葉には、自然とともに、いや現代においては、世界とともにと言い換えた方が妥当だろうが、常に人間の疲弊しつつある個性に瑞々しい力を吹き込むエネルギーの象徴的な姿が感得できるはずである。
人間は、生きているかぎり、生の平坦さの過程で、豊饒さという明るい可能性に満ちた節目に遭遇する可能性と伴に、言葉のジャンルとしては同じものに分類されるであろう、過剰さという言葉との遭遇の可能性、しかし、概念性としては両者はまったく正反対の、人の生に対する正負の影響力を受けつつ、生のあり方を紡ぎださねばならないのである。人々が、自身や他者の生き方を捉えて、人生に対して前向きだとか、後ろ向きだとかと称する根底には、概念上の過剰さと豊饒さとの桎梏が在る、と考えるべきなのではないか、と僕は近頃思うのである。愚論なのかも知れないが、敢えてここに書き残す。
推薦図書:「エロティシズム」ジョルジュ・バタイユ著。ちくま学芸文庫。生の豊饒と過剰さにこれほど、本質的に拘った思索をなし得た思想家はバタイユ以外にはいないと言っても過言ではありません。バタイユの文学作品から入ると、読み方によっては、生や性に対する不浄な気分を持ってしまう可能性がありますが、やはり、彼の小説の作品群を読む前に、バタイユの思索の深さをぜひとも味わっていただきたいものです。良書だと思います。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃