○これからの生き方の問題として。
昨今、僕はなぜだか自分の年齢を忘却していることがあり、歳の割には新たな事業にも色気を見せるし、投資のチャンスを狙ってもいたし、仕事のさらなる発展さえ、非常に現実的な問題として、取り組もうとしていたように思う。しかし、誰に言われたか定かでないが、僕はアラカンなのだそうな。アラカンとは、還暦間際および、還暦を過ぎた、人生の最終盤に行き着いた人間のことらしい。そう言えば、アラカンという現象は、僕にとっては確かに否定し難い現実だろう。いつこの世界から去ってもおかしくはない歳だ。そうであれば、もはや焦ることもなかろう。何をぎらぎらと、もう一度何とか自己の人生を再構築しようなどと考えるに至ったのか、いまとなってはよくわからぬし、また、そんなことは、どうでもよくなった。別に金銭に執着がある人間ではもともとない。食えればよいし、食えなくなったら、野たれ死ぬ覚悟であったはずなのに、どこかで、世界観の軸がブレた。少なくともいま、これを書いている僕は、心穏やかである。もはや金銭に関するあらゆる作為的な想いは、自分の中から姿を消した感がある。もとにもどろう!食えなくなったら、野たれ死ぬ。それが僕の死生観だったはずだから。しばらく自分の思想と異なるところで、生き直しを意図していたのは、様々な理由があるが、いや、絞り切れば、一つに集約出来はするが、ここに書いてもあまり意味をなさないだろう。
昨今は久々に、自分の心が委縮するというか、その結果たる落ち込みの中でもがいていたのだが、それでもある小説の中の、山深い一軒家に一人で生き続けている90歳に近いと思われる老人が、たまたま山の中を彷徨っていた青年に対して述べる言葉に、ハッとさせられた。彼曰く、「人間なんざ一人で生きるのは、誰だって、みんな寂しいもんだがね。だけんど逆に、その寂しさが我慢できりゃあ、ほかのことはなんでもがまんできる。貧乏も病気も歳をとることも死んでいくことも、生きてる寂しささえ我慢できりゃあ、人間てえのは、はあ何でも我慢できるべえよ」と。彼の言葉は、確かな人生の真理だろう、とつくづく思う。人はどのように生きようと行き着く果ては、孤独なのだ。生きる孤独を忘却することも、孤独を癒すためだけに他者と関わる愚かしさの中に、人生の真実が見えるはずがないではないか。この青年は、老人の「生きていることがそんなに辛えかい」と心の底を見透かされたように問われる。その厳しい問いに対して、「生きていることが辛いのか辛くないのか、それはわかりません。でも死ぬまでの時間をどうやってつぶそうかと思うと、茫漠とします」と青年は呟く。老人答えて曰く「じっとしてればいいべ。死ぬまでの時間が長えか短けえか、そんななあ頭の中のカラクリたい。・・・本心から会いてえ人間がいるのか、いねえのか、兄ちゃんも一度よーく、自分に聞いてみることだいなあ」と癖のある秩父弁で生と死に纏わる真理を青年に語りかける。あくまで一人の生活者の生活哲学として。
人間が孤独に胸を搔き毟りたくなるとき、その人間にとって、ほんとうは孤独の意味すら分かってはいない感情に支配されて、身悶える。孤独か、孤独でないのかは、自分のまわりに他者が存在するか否かという視点からだけの判断では、判断不能なのである。言葉を換えれば、常に他者は存在する。しかし、どのような理由であれ、孤独の底に沈んだ人間にとっては、他者の存在が見えないどころか、おそらくは、そのときの、自分の姿さえ見えなくなっているものと想われる。限りなく自己の内面へ収斂していく精神の力学だけが、自己の存在そのものを呑みこむように機能し、存在の意味を無化する。それが一般に僕たちが感じるところの孤独の意味だろう。老人の「人生に対する目論見など、自己の頭の中のカラクリだ」という定義は、生の真実を捉えているという意味で、実に重い。
人間は生きねばならないのではない。人間は生きているのであり、生きるのが自然なのだ。そこに功利的な知恵が持ち込まれると、しばしば、要らぬことで、人は生きる意味を喪失するハメになる。誤解なきように。僕は悟りなどという境地を信じる人間ではない。それよりも、生活哲学からの生と死についての考察を深めたいと考えている。いま、行き着いていることについての考察は、すでに書いた。浅薄な思想なのかも知れないが、これがいまの自分の力量であると認めざるを得ない。何の因果か、このブログを読むことになった人々に対しては、正直に、「すみません」とひと言謝ることにしたい。そういう意味で読んでくだされば幸いである。今日の観想である。
推薦図書:「サガン-疾走する生」マリー・ドミニク・ルリエーヴル著。阪急コミュニケーションズ。フランソワーズ・サガンの評伝です。僕が青年のころ、サガンなんて、プチブルのたわごとだという風潮が支配的だった左翼の過激派集団の精神的土壌の中で、僕は、その一員でありながら、フランスの小説に読みふけりました。勿論、サガンの文庫本なども、ジーンズのポケットの中にしのばせて、こっそりと読んでいました。彼女の作品の文庫はどの作品も薄くて、ジーンズのポケットの中に入れるのにもってこいだったのです。さて、この伝記はよく書けたものだと思いますので、ぜひともの推薦の書です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
昨今、僕はなぜだか自分の年齢を忘却していることがあり、歳の割には新たな事業にも色気を見せるし、投資のチャンスを狙ってもいたし、仕事のさらなる発展さえ、非常に現実的な問題として、取り組もうとしていたように思う。しかし、誰に言われたか定かでないが、僕はアラカンなのだそうな。アラカンとは、還暦間際および、還暦を過ぎた、人生の最終盤に行き着いた人間のことらしい。そう言えば、アラカンという現象は、僕にとっては確かに否定し難い現実だろう。いつこの世界から去ってもおかしくはない歳だ。そうであれば、もはや焦ることもなかろう。何をぎらぎらと、もう一度何とか自己の人生を再構築しようなどと考えるに至ったのか、いまとなってはよくわからぬし、また、そんなことは、どうでもよくなった。別に金銭に執着がある人間ではもともとない。食えればよいし、食えなくなったら、野たれ死ぬ覚悟であったはずなのに、どこかで、世界観の軸がブレた。少なくともいま、これを書いている僕は、心穏やかである。もはや金銭に関するあらゆる作為的な想いは、自分の中から姿を消した感がある。もとにもどろう!食えなくなったら、野たれ死ぬ。それが僕の死生観だったはずだから。しばらく自分の思想と異なるところで、生き直しを意図していたのは、様々な理由があるが、いや、絞り切れば、一つに集約出来はするが、ここに書いてもあまり意味をなさないだろう。
昨今は久々に、自分の心が委縮するというか、その結果たる落ち込みの中でもがいていたのだが、それでもある小説の中の、山深い一軒家に一人で生き続けている90歳に近いと思われる老人が、たまたま山の中を彷徨っていた青年に対して述べる言葉に、ハッとさせられた。彼曰く、「人間なんざ一人で生きるのは、誰だって、みんな寂しいもんだがね。だけんど逆に、その寂しさが我慢できりゃあ、ほかのことはなんでもがまんできる。貧乏も病気も歳をとることも死んでいくことも、生きてる寂しささえ我慢できりゃあ、人間てえのは、はあ何でも我慢できるべえよ」と。彼の言葉は、確かな人生の真理だろう、とつくづく思う。人はどのように生きようと行き着く果ては、孤独なのだ。生きる孤独を忘却することも、孤独を癒すためだけに他者と関わる愚かしさの中に、人生の真実が見えるはずがないではないか。この青年は、老人の「生きていることがそんなに辛えかい」と心の底を見透かされたように問われる。その厳しい問いに対して、「生きていることが辛いのか辛くないのか、それはわかりません。でも死ぬまでの時間をどうやってつぶそうかと思うと、茫漠とします」と青年は呟く。老人答えて曰く「じっとしてればいいべ。死ぬまでの時間が長えか短けえか、そんななあ頭の中のカラクリたい。・・・本心から会いてえ人間がいるのか、いねえのか、兄ちゃんも一度よーく、自分に聞いてみることだいなあ」と癖のある秩父弁で生と死に纏わる真理を青年に語りかける。あくまで一人の生活者の生活哲学として。
人間が孤独に胸を搔き毟りたくなるとき、その人間にとって、ほんとうは孤独の意味すら分かってはいない感情に支配されて、身悶える。孤独か、孤独でないのかは、自分のまわりに他者が存在するか否かという視点からだけの判断では、判断不能なのである。言葉を換えれば、常に他者は存在する。しかし、どのような理由であれ、孤独の底に沈んだ人間にとっては、他者の存在が見えないどころか、おそらくは、そのときの、自分の姿さえ見えなくなっているものと想われる。限りなく自己の内面へ収斂していく精神の力学だけが、自己の存在そのものを呑みこむように機能し、存在の意味を無化する。それが一般に僕たちが感じるところの孤独の意味だろう。老人の「人生に対する目論見など、自己の頭の中のカラクリだ」という定義は、生の真実を捉えているという意味で、実に重い。
人間は生きねばならないのではない。人間は生きているのであり、生きるのが自然なのだ。そこに功利的な知恵が持ち込まれると、しばしば、要らぬことで、人は生きる意味を喪失するハメになる。誤解なきように。僕は悟りなどという境地を信じる人間ではない。それよりも、生活哲学からの生と死についての考察を深めたいと考えている。いま、行き着いていることについての考察は、すでに書いた。浅薄な思想なのかも知れないが、これがいまの自分の力量であると認めざるを得ない。何の因果か、このブログを読むことになった人々に対しては、正直に、「すみません」とひと言謝ることにしたい。そういう意味で読んでくだされば幸いである。今日の観想である。
推薦図書:「サガン-疾走する生」マリー・ドミニク・ルリエーヴル著。阪急コミュニケーションズ。フランソワーズ・サガンの評伝です。僕が青年のころ、サガンなんて、プチブルのたわごとだという風潮が支配的だった左翼の過激派集団の精神的土壌の中で、僕は、その一員でありながら、フランスの小説に読みふけりました。勿論、サガンの文庫本なども、ジーンズのポケットの中にしのばせて、こっそりと読んでいました。彼女の作品の文庫はどの作品も薄くて、ジーンズのポケットの中に入れるのにもってこいだったのです。さて、この伝記はよく書けたものだと思いますので、ぜひともの推薦の書です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃