ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○日本の右翼について想うこと。

2010-07-21 15:57:30 | Weblog
○日本の右翼について想うこと。
 常々思っていて、あまり重要だとも思わなかったので書き留めることもなかったのだが、日本で右翼と呼ばれている人間及び組織に関して、何らかの、僕なりの定義づけが必要かとも思う。みなさんが漠然と抱いている右翼に関するイメージと、僕のそれとはそれほどの距離感はないと推察する。現象的に云えば、現代における右翼のイメージとは、大型の観光バスの中古車を黒塗りにし、時代錯誤の結社名を恥ずかしげもなく大仰に書き、古めかしい、売れない歌謡曲のような歌を大音量で流しつつ、北方領土返還と日教組に対するわけのわからぬ批判的言辞を繰り返すような悪趣味の極みである。あの大音量に対して、あるいは、街中に大型バスの大きさの不気味な何台もの車に対して、日本の警察が取り締まる光景を見たことがないのも不可思議なことである。つまらない個人に対する職質を繰り返す警察権力が、事、右翼団体に対しては、あまりにもお目こぼしが大き過ぎるのはいかなることなのか?
 近代社会における右翼団体のもとをたどれば、第二次大戦中の、あるいは日中戦争中からの、児玉誉士夫と、笹川良一の中国大陸における暗躍によって、巨万の富をネコばば同然に中国大陸から持ち帰り、その財力をもとにして、戦後の日本の保守政治家を陰で動かしてきた活動が思い浮かぶ。児玉誉士夫も笹川良一も満州から上海にかけて、日本陸軍の武器・食料などの調達を独占し、横流しし、中国の当時の資産家たちから、軍隊の力を借りて金品を不法に分捕り、それらを貯め込んだ。とりわけ、児玉誉士夫は、児玉機関と称する軍部との繋がりの中で、日本の国益などはそっちのけで、自己の金満家としての欲望を思いのままに満たしたのである。敗戦後、児玉を乗せた専用機には、中国大陸でくすねた金塊を飛行機の床に敷き詰め、その他の金品財宝を欲望のままに飛行機に持ち込んだために、過重な重量に耐えかねた飛行機が、日本の飛行場に離陸する際に前輪が重さに耐えかねて折れたという事実は、あまりにも有名な逸話である。
 児玉誉士夫は、戦後の日本でA級戦犯に問われることもなく、国際興業という日本型コングロマリットの代表者として、長きに渡って、GHQとその走狗としての保守政治家たちを陰から操り続けた。無論、そこには、膨大な金銭が動いたのは想像に難くない。笹川良一は、競艇界のドンとしての地位をほしいままにした。競艇を法律によって合法化し、独占できたのは、笹川が金銭で政治を繰ることで成し遂げられ結末である。笹川良一などは、歳老いてから、度々テレビの競艇のコマーシャルに出演し、好々爺を演じていたし、競艇で数えきれない人々が生活を破綻させた、その金で、国連に微々たるお余りの寄付をしたことで、国連から表彰されたことは、何とも歴史の皮肉としか言いようのない事実である。ご存じのとおり、笹川良一はA級戦犯として逮捕されたが、金の力と、GHQが日本を操るために必要とした人材?として認めたために、釈放された。A級戦犯として極東軍事裁判で認定された人間たちが次々と処刑される中で、笹川は悠々と巣鴨から出獄してきたのである。
 児玉も笹川もすでに鬼籍に入って久しいが、やはり自称右翼と称する団体がまるでセンスのない時代錯誤の言動を繰り返していられるのは、その資金源にせよ、警察の明らかなお目こぼしにせよ、裏でタカ派の保守政治家や、それを支える資本家たちが、時には株式総会でまっとうな株主に物を言わせないために、あるいは、タカ派政治家たちからの資金を得る見返りに、あやしげな商売に対する、これまたお目こぼしがあると考える方が自然ではないか?
 それにしても、児玉誉士夫も笹川良一は勿論のこと、彼らを支えた右翼政治家も右翼団体も愛国と叫びながら、彼らの攻撃のターゲットは、常にかつてのソ連、現在のロシアをはじめとする共産圏の国々やかつての日本軍の支配国に限られているのは、どう控えめに見ても思想的におかしい。愛国というならば、第二次大戦における敗戦が明らかであったにも関わらず、東京・大阪のB29の爆撃による非戦闘員の大量虐殺と、戦後政策のために落とされた、世界で唯一の広島・長崎への二発の原子爆弾によるホロコーストに対して、何故愛国的に、アメリカを非難しないのであろうか?北方領土だけが日本の主権を犯された証左なのだろうか?それなら、いま、大問題になっている沖縄におけるアメリカの軍事基地に対する、愛国的精神からの怒りがなぜ湧いては来ないのか?答えは明らかではないか。銭、である。日本の右翼団体の愛国の正体は、明らかに、銭のための言動に過ぎない。さもしい限り。

推薦図書:「夜と女と毛沢東」吉本隆明×辺見庸の対談。文藝春秋刊。政治的行為や言辞など、そもそも矛盾だらけ。右翼ばかりをやり玉に挙げるのもどうかと思いますので、かつては左翼の憧れだった毛沢東という、したたか極まる人物像に迫ってみましょう。毛沢東があの悪名高き「文化大革命」を指導したのです。政治とは、健康なときはそうでもないですが、体調がよろしくないと、僕にとっては、関わりたくない、NO.1の存在です。

京都カウンセリングルーム(http://www.counselor-nagano.jp/)
アラカルト京都カウンセリングルーム(http://www.sodan119.jp/) 長野安晃

○「英語青年」随想

2010-07-21 02:26:09 | Weblog
○「英語青年」随想
 「英語青年」とはかつて研究社から出版されていた英語・英文学関係の、学会誌と、一般読者向けの中間的な存在として名の通った雑誌だった。英米文学者や言語学者たちの小遣い稼ぎの雑誌だったとは思うが、たぶん彼らにとっても、それぞれの所属する学会誌などへの投稿原稿と比べると、ある程度は、一般読者に読める程度には言葉を砕いて書いている英語専門誌という体裁であり、当時高校の英語教師であった僕にも理解可能な、しかし、あくまで退屈な雑誌だったと記憶する。友人の言語学者が、英語青年の雑誌を半年分か、1年分かをまとめたかなり分厚い冊子を図書館から借り出したというので、見せてもらったら、この雑誌を定期購読していた頃のことがいろいろな過去の思い出のフリンジとともに僕の記憶の中に甦ってきたのである。
 当時、僕のまわりには、「英語青年」などという、筆者たちの中途半端な長さの論文というか、レポートというか、そういう学者たちの寄せ書きにも似た雑誌を読むような酔狂な人間はいなかった。それを唯一読んでいた僕とても、決して真剣な読者などではなく、高校の英語教師という身分の不確かさ、英語教師でありながら、まともな英語理論さえ知らない連中に囲まれて、ずいぶんと腐っていたというだけの、かなり不真面目な読者だったと思う。正直に告白すると、掲載されている論文まがいの書きなぐりの原稿に対しては、少なからず憤慨しながら読んだ記憶がある。文学を、英語学、広い意味における言語学を論じるならば、それらは具体的な言語活動や言語習得に関わった、開かれた論点を持っていなければ存在理由など無きに等しいだろう、などと雑誌を読みながら毒づいていた記憶が鮮明にある。これは、研究社という英語関係の雑誌社の、学者への金のばら撒きの素材と、一般向けの研究書や辞書などの宣伝のための、研究書の体裁をとったある種のフェイク雑誌だろうという確信を持ち始めてから、購読を止めた。
 それが20年ぶりくらいに、当の雑誌が目の前に現れたのである。陳腐な表現だろうが、走馬灯のように、眼前の「英語青年」と伴に、僕の当時の過去の英語教師としての総体が甦ってくるのを圧し止めることが出来なかったのである。それがこのブログを書くきっかけになったと解釈していただくとよい。また、それ以外の目的はない。
 僕が「英語青年」を読んでいた頃の高校以下の英語教師の殆どは、海外留学の経験もなく、また、英語を自由に駆使したコミュニケーションなどが出来る人はいなかったと思う。僕の「英語青年」誌へのいっときの傾斜は、学術的なることを気どるための方便だったと思う。しかし、高校以下の英語教師にとって、学術的な要素など不要なものだったし、それは、単純に言うと、英語が聞きとれず、また喋れないことの僕なりの言い訳に過ぎなかったと思う。この当時、大学においては冷や飯食いの、英語教授理論なんかを専門にしている英語使いの大学教員たちは、高校以下の英語教師を「喋れない英語教師」などといって揶揄することが多かった。たぶん、彼らも大学においては、英米文学が中心の研究事情の中で、大学という研究機関においては、階層としてはかなり惨めなものだったからだろう。憤懣とは、常に上に向かうことはなく、より下層へと降下していくものなのである。
 中曽根康弘が日本の総理大臣になってからは、喋れない英語教師にとっては受難の時代だった。中曽根は、日本の英語教育が、物の役に立たないことに苛立っていた。彼は単純な競争原理を学校社会に持ち込む方法論として、海外の、特にはじまりはアメリカ政府の要請によって、アメリカの青年たちに食いぶちを与えるための方途を、AET(後のALT)、つまりはAssistant English Teacher(後のAssistant Language Teacher)を導入して、強圧的に喋れない、聞きとれない英語教師たちの能力開発に取り組んだのである。強圧的とは、日本人の英語教師に対しては、言語運用力をつけるための何らの予算も組むことはなかった、という意味である。要するに、日本の役立たずの英語教師たちは身銭を切って言語習得に励めというわけである。多くの英語教師たちは、この種の言語習得の嵐から身を潜めるように逃げだした。しかし、逃げてもアメリカの青年たちは、教員免許も持たない身分ゆえに、授業は日本人の英語教師の補助をすることになっていて、英語の運用能力のない人間にとっては、殆ど拷問に近い時間だったと推察する。
 中曽根康弘が首相になった当初に、僕自身は中曽根の意図を諒解していたので、猛烈に英語運用力をつけるための勉強を始めた。それは、夏休みからはじまったが、僕はナチュラル・スピードの英語のテープを何十本も用意して、朝から晩まで英語漬けになった。たぶん、一日に10時間は英語を聞き暮らしたと記憶する。その当時、自転車で通える距離に英国文化センター(British Council)があったので、数年間は、イギリス人たちに英語を教わった。仲間はみんな大学生。僕はすでに35歳になっていた。中曽根などには負けられないので、過激な勉強を自分に課したら、ひと夏で、英語が繋がって聴こえるようになった。英国文化センターの授業で、スピーキングも何とかこなせるようになった。僕にとっての英語習得は、中曽根康弘というタカ派政治家に難癖をつけられた英語教師としての小さな抗いそのものだったと思う。この頃、「英語青年」という雑誌から、Japan Timesという英字新聞と極東版のTime誌とNHKの英語上級コース番組へと変遷していった。同時に、前記したように、「英語青年」の専門誌としての偽物性にも嫌気がさしてもいたからである。こうして、僕が英語運用力を身につける過程で、「英語青年」は遠い存在になった。
 英語教師を辞してからの10年間で、僕の英語力は日増しに衰えていったが、それにしても、いまだに、自分の伝えたきことは、力技でも伝えきる。それが僕の英語の使い方なのである。喧嘩腰の英語である。それでよい、といまでも僕は思っている。今日の観想である。

推薦図書:今日は3冊です。「英語論文―すぐに使える表現集」ペレ出版。「外国人とのコミュニケーション」岩波新書。J.V.ネウストプニー著。「アメリカの彼方へ」自由国民社。越川芳明著。

京都カウンセリングルーム(http://www.counselor-nagano.jp/)
アラカルト京都カウンセリングルーム(http://www.sodan119.jp/) 長野安晃