○人生における出会いと別れについて想うこと。
人が生きている実感を感じとるのは、この世界の数えきれない人々の中に、自分の思想と共鳴し得る人と邂逅出来た瞬間なのではなかろうか。この場合の邂逅とは、何十年ぶりかのそれではなくて、生の中に於ける一回性の、稀有な体験を指していうのである。思想の共鳴とは、思想的な次元の問題などではない。ある意味、そんなことはどうでもよいことなのである。言葉の使い方からすれば、正反対のことを言うのかも知れないが、それは、感性の、精緻で、淀みない合一でもある。
こういうことを考えると、実生活上の出会いとは、思想の次元の問題からすれば、言語交通路の共有であり、共感である。具体的な様相としては、当事者どうしの個性によって、言葉の横溢な交換を通じて、互いの心的な溝を埋めていくこともあり、また、その一方で、極限まで言葉による自己表現を練磨して、言葉と自己表現の、一価値への収斂による価値共有の可能性もあり得るのではなかろうか。
人がこの世界における生の形態として、特別な存在であるならば、上記のごとき生における出会いの、光り輝くような至福の瞬間は、すべての生のフリンジ、たとえば、生まれ育ち、血縁、地域性、経済的要素、社会的地位等々、を凌駕して立ち現れてくるはずだろう。このようなフリンジによってむすばれる絆などというものは、エセもののそれだろうから、生における一回性の出会いというロマンティックな色彩とは無縁のものに過ぎなくなるのは当然の結末だろう。たぶん、生のフリンジに捉われた瞬間から、人は人生における頽落という坂道を転がりはじめる。
出会いには別れという概念がついてまわる。それは必ずしも出会いの破綻の結果訪れるものではない。至福たる出会いを果たしたとしても、思想や感情の縺れというものは、互いの行く末にぽっかりと口を開けて待ち構えている。別れは死という、生の唐突な断絶だけを意味するのではなく、互いに価値を認め得なくなった結末であることも当然に起こる。残念なことに、死という断絶によらない、価値意識を見失った人々の別れの原因とは、意外にも本質的な違和が生じたというよりも、生に纏わるフリンジ、つまり、生まれ育ち、血縁、地域性、経済的要素、社会的地位等々のもたらすつまらないものなのだ。生の輝きが急速にその意味を喪失するのは、まさにこの瞬間であり、だからこそ、生は倦むべき存在と化し、日常性というダラダラとした凡庸さの中で、いずれは訪れる死を、無価値なそれに変えてしまうのである。生における頽落とは、まさにこういう様態を指して言う言葉である。
人は、生きているうちにたくさんの他者との出会いがあるものと錯誤している。無論、他者との出会いの定義を、人が社会的約束事の場として、所属している集団内の他者との交流のすべてを含めるのであれば、当然のことだが、出会い?という機会は数量的な次元においては、数多いのは必然である。しかし、こういう出会い?などは生のフリンジ中のフリンジの概念性の中に逼塞せしめてよいものではなかろうか。何故なら、所属集団を離れれば、築いたはずの関係性などは、事のはじまりからなかったかのように消え果てる。葬式という儀式が好きな人は、自分は死した者として知り得ないことだが、近親者は、死者の生前の他者との関係性の大きさを確認はできるが、しかし、それは葬式が単なる様式に過ぎないように、集合したかつての人間関係そのものが、様式化されたそれである。したがって、突き詰めれば、人が生の一回性の中で、価値ある出会いをなし得る可能性は、厳密に言うと数えるほどしか訪れることはない。その意味で、生きていることの要素の中に、他者との関わりが少ないという理由で孤独感を抱く人がいるとするなら、そういう人こそ、生のフリンジの中における人間関係の味気なさに気づく必要がある。そうであれば、数少ない出会いであれ、その中には、確実に生を光輝かせる出会いというものがあることに気づくはずである。肝心なことは、出会いの質の問題である。量的なそれなどは、極論すれば、無意味・無価値と規定することが出来ると思う。
もしも、生きることに醍醐味があるとするならば、それは掛け値なしの、かけがえのない出会いがあり、また、その有意味性に覚醒した感性で対峙できるかどうか、ではないのか?出会いがあり、不幸にして、別れがその後にあるにしても、別れもまた生の幅を広げるものとして、生の豊かさという概念の中に含まれる。そのように認識されなければ別れから感得するものはない。出会いと別れは、どこまでも、前記した、生に纏わるフリンジとは敢えて切り離した純一なファクターとして在るべきだと僕は思う。
推薦図書:「情事の終わり」グレアム・グリーン著。新潮文庫。中年作家ベンドリックスと高級官吏の妻サラァの激しい恋が、はじめと終わりある<情事>へと変貌したとき、現れ出るものの実質を、物語性の中から読みとってください。お薦めします。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃
人が生きている実感を感じとるのは、この世界の数えきれない人々の中に、自分の思想と共鳴し得る人と邂逅出来た瞬間なのではなかろうか。この場合の邂逅とは、何十年ぶりかのそれではなくて、生の中に於ける一回性の、稀有な体験を指していうのである。思想の共鳴とは、思想的な次元の問題などではない。ある意味、そんなことはどうでもよいことなのである。言葉の使い方からすれば、正反対のことを言うのかも知れないが、それは、感性の、精緻で、淀みない合一でもある。
こういうことを考えると、実生活上の出会いとは、思想の次元の問題からすれば、言語交通路の共有であり、共感である。具体的な様相としては、当事者どうしの個性によって、言葉の横溢な交換を通じて、互いの心的な溝を埋めていくこともあり、また、その一方で、極限まで言葉による自己表現を練磨して、言葉と自己表現の、一価値への収斂による価値共有の可能性もあり得るのではなかろうか。
人がこの世界における生の形態として、特別な存在であるならば、上記のごとき生における出会いの、光り輝くような至福の瞬間は、すべての生のフリンジ、たとえば、生まれ育ち、血縁、地域性、経済的要素、社会的地位等々、を凌駕して立ち現れてくるはずだろう。このようなフリンジによってむすばれる絆などというものは、エセもののそれだろうから、生における一回性の出会いというロマンティックな色彩とは無縁のものに過ぎなくなるのは当然の結末だろう。たぶん、生のフリンジに捉われた瞬間から、人は人生における頽落という坂道を転がりはじめる。
出会いには別れという概念がついてまわる。それは必ずしも出会いの破綻の結果訪れるものではない。至福たる出会いを果たしたとしても、思想や感情の縺れというものは、互いの行く末にぽっかりと口を開けて待ち構えている。別れは死という、生の唐突な断絶だけを意味するのではなく、互いに価値を認め得なくなった結末であることも当然に起こる。残念なことに、死という断絶によらない、価値意識を見失った人々の別れの原因とは、意外にも本質的な違和が生じたというよりも、生に纏わるフリンジ、つまり、生まれ育ち、血縁、地域性、経済的要素、社会的地位等々のもたらすつまらないものなのだ。生の輝きが急速にその意味を喪失するのは、まさにこの瞬間であり、だからこそ、生は倦むべき存在と化し、日常性というダラダラとした凡庸さの中で、いずれは訪れる死を、無価値なそれに変えてしまうのである。生における頽落とは、まさにこういう様態を指して言う言葉である。
人は、生きているうちにたくさんの他者との出会いがあるものと錯誤している。無論、他者との出会いの定義を、人が社会的約束事の場として、所属している集団内の他者との交流のすべてを含めるのであれば、当然のことだが、出会い?という機会は数量的な次元においては、数多いのは必然である。しかし、こういう出会い?などは生のフリンジ中のフリンジの概念性の中に逼塞せしめてよいものではなかろうか。何故なら、所属集団を離れれば、築いたはずの関係性などは、事のはじまりからなかったかのように消え果てる。葬式という儀式が好きな人は、自分は死した者として知り得ないことだが、近親者は、死者の生前の他者との関係性の大きさを確認はできるが、しかし、それは葬式が単なる様式に過ぎないように、集合したかつての人間関係そのものが、様式化されたそれである。したがって、突き詰めれば、人が生の一回性の中で、価値ある出会いをなし得る可能性は、厳密に言うと数えるほどしか訪れることはない。その意味で、生きていることの要素の中に、他者との関わりが少ないという理由で孤独感を抱く人がいるとするなら、そういう人こそ、生のフリンジの中における人間関係の味気なさに気づく必要がある。そうであれば、数少ない出会いであれ、その中には、確実に生を光輝かせる出会いというものがあることに気づくはずである。肝心なことは、出会いの質の問題である。量的なそれなどは、極論すれば、無意味・無価値と規定することが出来ると思う。
もしも、生きることに醍醐味があるとするならば、それは掛け値なしの、かけがえのない出会いがあり、また、その有意味性に覚醒した感性で対峙できるかどうか、ではないのか?出会いがあり、不幸にして、別れがその後にあるにしても、別れもまた生の幅を広げるものとして、生の豊かさという概念の中に含まれる。そのように認識されなければ別れから感得するものはない。出会いと別れは、どこまでも、前記した、生に纏わるフリンジとは敢えて切り離した純一なファクターとして在るべきだと僕は思う。
推薦図書:「情事の終わり」グレアム・グリーン著。新潮文庫。中年作家ベンドリックスと高級官吏の妻サラァの激しい恋が、はじめと終わりある<情事>へと変貌したとき、現れ出るものの実質を、物語性の中から読みとってください。お薦めします。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃