○物事を普遍化あるいは一般化することの重要性について想うこと。
この世界で生起する出来事のひとつひとつは、あくまで個別の問題なのであって、たとえその様相が似ているかに見えても、内実は生起する事柄の数だけ存在する、と考えるのがリアルな世界の捉え方ではなかろうか。だからこそ、人は他者との間に、その関係性がいかに親密なものであれ、ある種の違和感を抱いてしまうのである。そこには、どうしても埋まらない、狭いが、深きクレバスが横たわっていると考えれば、人間関係における不調和のあれこれを考えるに当たって、とりとめもない孤独感や孤立感に苛まれることもなくなるだろう。翻って考えれば、これこそが、人間存在に内在する自=他という関係性における不全感の実体でもある。だから人というのは、互いに分かり合えるようでいて、いったいどこに互いに諒解し合った到達点があるのか、ということで思い悩む。さらに言うならば、人は、元来、個としての存在として、この世界にひとりひとり屹立しているのであり、個と個が寄り集まって、集団を形成するかのごとき安逸な集団の定義や、社会というものの定義をしてしまうから、ふと我に返って自己の内面深く、存在の意味を自問した瞬時に、深い暗黒の世界が横たわっているということに気づき、怖れおののくのである。
出来事の個別性についての観想は、上記に述べたとおりではあるが、しかし、だからといって、人間は、個の中に閉塞したまま満足出来る存在でないのも動かしがたい現実である。もし、個としての人間が、さまざまなジャンルにおいて、他者とのむすびつきを求めるとするなら、どこまでも自己の個別的な問題を、自己の言葉でしか語り得ない様態のままに放置している限り、人はいつまでも孤独の淵に居続けることになる。したがって、同じ状況下にあれば、人は好むと好まざるに関わらず、必ず同じ結末に直面するのである。ならば、個としての人間に生起した物事の解釈は、どこまでいっても個の思想として収束してしまうものなのだろうか?無論、このようなことも起こり得るし、敢えて酷薄なことを言えば、個として閉じてしまった思考回路とは、実質的な人間の死と同義語だということだ。そこには、いかなる意味においても、思想は収斂していくだけの存在であり、拡散、発展、飛翔という回路が開けてくることがないからである。
それでは、生に繋がる思想のありようとは、いったいどのようなものなのだろうか?あるいはどのようなものでなければならないのだろうか?まず気づいておくべきことは、人の思想とは、本来は自己の内面へと収斂されていく。これを思想の内面化というが、多くの人は、内面化された己れの思想を、自分独自の人生譚という枠組みの中に閉じ込めてしまいがちである。昨今流行りの「自分史」という自己の人生譚が他者の胸を打たず、自己閉塞的な存在のまま、ごく限られた嗜好の持ち主にしか諒解出来ないものになり下がるのは、己れの思想が内面化されたままになっているからに他ならない。
人が何がしかの問題に対峙し、その問題から学びとった出来事や、そこから抽出された思想を、内面化させ得なければ、そもそも思想形体としてまともなものにはなり得ない。だから僕は思想の内面化そのものを否定する者ではない。むしろ、思想の内面化をより深度のあるものにする必要性を認めるのである。敷衍して云えば、内面化なき思想とは、内実なき思想と等価であるからだ。さて、ここからが、知性の力技ともいうべき、内面化された思想を普遍化、あるいは一般化するための意味についての考察である。
あるひとつの現象の思想的な意味を内面化させてのち、他者と繋がる言語回路、すなわち内面化された思想を、自己の存在理由の次元にまで引き上げる意思を持って再び自己の表現で言語化し直すこと。ここに内面化された思想を他者の言語回路へと誘因し、他者との共有し得る思想的エナジーを創造出来る可能性が生まれ出てくるのである。さらに言うなら、このような思想的な営為は、世界に対して開かれているのであり、当然のことだが、その思想そのものが、他者に向けて拡散し、発達・発展し、さらには飛翔し得る可能性を孕むのは必然であろう。この意味において、思想の普遍化・一般化とは、思想の単なるカタログ化を意味するのではなく、思想の飛躍と発展に寄与するものである。人間に未来があるとするなら、このプロセスを意識化した思考回路を、僕たちがいかにして我がものとし得るか、ということにかかっているのではなかろうか。そんなことを考えているこの頃である。
推薦図書:小説世界において、上記したことを作品という土壌で自己の思想を拡大していく力ある作家として、人気作家のポール・オースターの作品群をお薦めします。翻訳が文庫本でたくさん読めますから、どこからでもどうぞ。ポール・オースターの作品がただ、おもしろいと感じるのもいいのですが、もし、その位置づけをしっかりとしたいのであれば、「ポール・オースター」彩流社刊を参考にしていただくと、彼の作品がさらに意味あるものとして胸に落ちると思います。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
この世界で生起する出来事のひとつひとつは、あくまで個別の問題なのであって、たとえその様相が似ているかに見えても、内実は生起する事柄の数だけ存在する、と考えるのがリアルな世界の捉え方ではなかろうか。だからこそ、人は他者との間に、その関係性がいかに親密なものであれ、ある種の違和感を抱いてしまうのである。そこには、どうしても埋まらない、狭いが、深きクレバスが横たわっていると考えれば、人間関係における不調和のあれこれを考えるに当たって、とりとめもない孤独感や孤立感に苛まれることもなくなるだろう。翻って考えれば、これこそが、人間存在に内在する自=他という関係性における不全感の実体でもある。だから人というのは、互いに分かり合えるようでいて、いったいどこに互いに諒解し合った到達点があるのか、ということで思い悩む。さらに言うならば、人は、元来、個としての存在として、この世界にひとりひとり屹立しているのであり、個と個が寄り集まって、集団を形成するかのごとき安逸な集団の定義や、社会というものの定義をしてしまうから、ふと我に返って自己の内面深く、存在の意味を自問した瞬時に、深い暗黒の世界が横たわっているということに気づき、怖れおののくのである。
出来事の個別性についての観想は、上記に述べたとおりではあるが、しかし、だからといって、人間は、個の中に閉塞したまま満足出来る存在でないのも動かしがたい現実である。もし、個としての人間が、さまざまなジャンルにおいて、他者とのむすびつきを求めるとするなら、どこまでも自己の個別的な問題を、自己の言葉でしか語り得ない様態のままに放置している限り、人はいつまでも孤独の淵に居続けることになる。したがって、同じ状況下にあれば、人は好むと好まざるに関わらず、必ず同じ結末に直面するのである。ならば、個としての人間に生起した物事の解釈は、どこまでいっても個の思想として収束してしまうものなのだろうか?無論、このようなことも起こり得るし、敢えて酷薄なことを言えば、個として閉じてしまった思考回路とは、実質的な人間の死と同義語だということだ。そこには、いかなる意味においても、思想は収斂していくだけの存在であり、拡散、発展、飛翔という回路が開けてくることがないからである。
それでは、生に繋がる思想のありようとは、いったいどのようなものなのだろうか?あるいはどのようなものでなければならないのだろうか?まず気づいておくべきことは、人の思想とは、本来は自己の内面へと収斂されていく。これを思想の内面化というが、多くの人は、内面化された己れの思想を、自分独自の人生譚という枠組みの中に閉じ込めてしまいがちである。昨今流行りの「自分史」という自己の人生譚が他者の胸を打たず、自己閉塞的な存在のまま、ごく限られた嗜好の持ち主にしか諒解出来ないものになり下がるのは、己れの思想が内面化されたままになっているからに他ならない。
人が何がしかの問題に対峙し、その問題から学びとった出来事や、そこから抽出された思想を、内面化させ得なければ、そもそも思想形体としてまともなものにはなり得ない。だから僕は思想の内面化そのものを否定する者ではない。むしろ、思想の内面化をより深度のあるものにする必要性を認めるのである。敷衍して云えば、内面化なき思想とは、内実なき思想と等価であるからだ。さて、ここからが、知性の力技ともいうべき、内面化された思想を普遍化、あるいは一般化するための意味についての考察である。
あるひとつの現象の思想的な意味を内面化させてのち、他者と繋がる言語回路、すなわち内面化された思想を、自己の存在理由の次元にまで引き上げる意思を持って再び自己の表現で言語化し直すこと。ここに内面化された思想を他者の言語回路へと誘因し、他者との共有し得る思想的エナジーを創造出来る可能性が生まれ出てくるのである。さらに言うなら、このような思想的な営為は、世界に対して開かれているのであり、当然のことだが、その思想そのものが、他者に向けて拡散し、発達・発展し、さらには飛翔し得る可能性を孕むのは必然であろう。この意味において、思想の普遍化・一般化とは、思想の単なるカタログ化を意味するのではなく、思想の飛躍と発展に寄与するものである。人間に未来があるとするなら、このプロセスを意識化した思考回路を、僕たちがいかにして我がものとし得るか、ということにかかっているのではなかろうか。そんなことを考えているこの頃である。
推薦図書:小説世界において、上記したことを作品という土壌で自己の思想を拡大していく力ある作家として、人気作家のポール・オースターの作品群をお薦めします。翻訳が文庫本でたくさん読めますから、どこからでもどうぞ。ポール・オースターの作品がただ、おもしろいと感じるのもいいのですが、もし、その位置づけをしっかりとしたいのであれば、「ポール・オースター」彩流社刊を参考にしていただくと、彼の作品がさらに意味あるものとして胸に落ちると思います。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃