○よろめく・・・
「よろめく」という言葉は、すでに死語になってしまったものだろう。とは言え、このよろめきという言葉は、僕には何とも艶めかしい響きをもって迫ってくるものである。
現代と比較しても、ずっと日本人の性に対する考え方が古典的だったずっと以前の空気を打ち破るほどの破壊力をもった役どころで、当時の大女優の中の幾人かは、「よろめき」という言葉を、時代に切り込んできた象徴的な価値変換のそれとして、たぶん多くの人の心の底に沈殿させた。
思えば、人は、本質的によろめく存在なのである。安心立命な生を送っていたとしても、人はその単調さに耐えられない。どうしても、アブナイ賭けに魅力を感じる。一寸先は闇という生き方に惹かれない人はいない。また、よろめく可能性とは無縁の人間などに、魅力はないと言って過言ではないとも思う。何故なら大き過ぎる脳髄を持ち得た人間とて、生活様式を動物たちとはまったく異なるものとして、ソフィスティケイト(sophisticated)させ続けてきたのが、人間の歴史の一断面からの解釈ではないか、と思うからである。単調な日常を、ソフィスティケイト(sophisticated)させるのは、我々が日常生活と認識している日々の凡庸な繰り返しが、いかに人の心を蝕み、生を耐えがたいものにしているか、ということに自覚的であるからでもある。だからこそ、人は、日常性を逸脱する危険性に対しては普遍的とも言える魅力を感じるのではないか?
明日、生きる糧を追い求めるだけの生活は、生物と同次元のそれである。こういう環境に置かれたら人間と云えども、生物学的な生のあり方に何の疑問も差し挟む余地などないような生き方をする。当然のことだろう。そこに、人間の知性から派生する文化や文明という存在が入り込む余地などない。このとき、人は動物的な生存のために生きているに過ぎないからである。しかし、こういう生き方は決して人間として満足し得るものではないし、物を食らい、息をつなぎ、排泄し、その隙間に性的営みをなす、などという生存のかたちに対して、肯定的であり得るはずがない。人は必ず知性の要求に従って、生の意味を探し始めるし、また、その探求の繰り返しこそが、人間の日常生活の根底に在るのは必然とも言えることであろう。だからこそ、人は、安全な日常生活の中に、自己を破滅させる可能性も顧みず、日常生活の中に、生の冒険を探し求めるのである。したがって、「よろめく」とは、日常性への抗いと同義語である。言葉を換えれば、よろめきのない日常性など原理的に存立不能なものだと規定することが出来る。
人は、よろめく心性と、堅牢な価値観を保持したい、というアンビバレンズ(ambivalence)の只中で、何とか精神の平衡感覚をとりながら生きるのである。このような思考の拡散は、平行棒とて、決して安全な道具とは言い難い。風でも吹けば、何の意味もないものになり果てる。つまりは、人の精神の平衡感覚ほど、不確かなものはないのである。危なげなタイトロープの上を渡っていくのが人間だとするなら、いつ足を滑らせて奈落の底に落ちていっても何の不思議もない。さらに重要なことは、人というのは、奈落の底とはいかなるものかをいつも考え、奈落への転落に憧れる存在だということである。
生は生き難い。しかし、生き難いというのは、生に倦み疲れる要素といつも僕たちは対峙せざるを得ないからである。その抗いの一つのかたちが、「よろめく」という心性であろう。古くて新しく、また普遍的な課題を秘めた言葉として、認識するべきではなかろうか。
推薦図書:「茨木のり子集 言の葉」(Ⅰ)(Ⅱ) ちくま文庫。茨木のり子著。生の本質を詩の世界から捉え返した茨木のり子という詩人が好きなので、今日の推薦図書とします。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃
「よろめく」という言葉は、すでに死語になってしまったものだろう。とは言え、このよろめきという言葉は、僕には何とも艶めかしい響きをもって迫ってくるものである。
現代と比較しても、ずっと日本人の性に対する考え方が古典的だったずっと以前の空気を打ち破るほどの破壊力をもった役どころで、当時の大女優の中の幾人かは、「よろめき」という言葉を、時代に切り込んできた象徴的な価値変換のそれとして、たぶん多くの人の心の底に沈殿させた。
思えば、人は、本質的によろめく存在なのである。安心立命な生を送っていたとしても、人はその単調さに耐えられない。どうしても、アブナイ賭けに魅力を感じる。一寸先は闇という生き方に惹かれない人はいない。また、よろめく可能性とは無縁の人間などに、魅力はないと言って過言ではないとも思う。何故なら大き過ぎる脳髄を持ち得た人間とて、生活様式を動物たちとはまったく異なるものとして、ソフィスティケイト(sophisticated)させ続けてきたのが、人間の歴史の一断面からの解釈ではないか、と思うからである。単調な日常を、ソフィスティケイト(sophisticated)させるのは、我々が日常生活と認識している日々の凡庸な繰り返しが、いかに人の心を蝕み、生を耐えがたいものにしているか、ということに自覚的であるからでもある。だからこそ、人は、日常性を逸脱する危険性に対しては普遍的とも言える魅力を感じるのではないか?
明日、生きる糧を追い求めるだけの生活は、生物と同次元のそれである。こういう環境に置かれたら人間と云えども、生物学的な生のあり方に何の疑問も差し挟む余地などないような生き方をする。当然のことだろう。そこに、人間の知性から派生する文化や文明という存在が入り込む余地などない。このとき、人は動物的な生存のために生きているに過ぎないからである。しかし、こういう生き方は決して人間として満足し得るものではないし、物を食らい、息をつなぎ、排泄し、その隙間に性的営みをなす、などという生存のかたちに対して、肯定的であり得るはずがない。人は必ず知性の要求に従って、生の意味を探し始めるし、また、その探求の繰り返しこそが、人間の日常生活の根底に在るのは必然とも言えることであろう。だからこそ、人は、安全な日常生活の中に、自己を破滅させる可能性も顧みず、日常生活の中に、生の冒険を探し求めるのである。したがって、「よろめく」とは、日常性への抗いと同義語である。言葉を換えれば、よろめきのない日常性など原理的に存立不能なものだと規定することが出来る。
人は、よろめく心性と、堅牢な価値観を保持したい、というアンビバレンズ(ambivalence)の只中で、何とか精神の平衡感覚をとりながら生きるのである。このような思考の拡散は、平行棒とて、決して安全な道具とは言い難い。風でも吹けば、何の意味もないものになり果てる。つまりは、人の精神の平衡感覚ほど、不確かなものはないのである。危なげなタイトロープの上を渡っていくのが人間だとするなら、いつ足を滑らせて奈落の底に落ちていっても何の不思議もない。さらに重要なことは、人というのは、奈落の底とはいかなるものかをいつも考え、奈落への転落に憧れる存在だということである。
生は生き難い。しかし、生き難いというのは、生に倦み疲れる要素といつも僕たちは対峙せざるを得ないからである。その抗いの一つのかたちが、「よろめく」という心性であろう。古くて新しく、また普遍的な課題を秘めた言葉として、認識するべきではなかろうか。
推薦図書:「茨木のり子集 言の葉」(Ⅰ)(Ⅱ) ちくま文庫。茨木のり子著。生の本質を詩の世界から捉え返した茨木のり子という詩人が好きなので、今日の推薦図書とします。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃