ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○見えない、ではなくて、敢えて「視えない人間」について語ろう。

2010-04-23 12:05:47 | 社会・社会通念
○見えない、ではなくて、敢えて「視えない人間」について語ろう。

昔、アメリカ文学のジャンルには、「黒人文学」というのが当然のようにあって、僕も結構好きでこのジャンルはめずらしくまじめに読んだ。それもさらにめずらしく英文のペーパーバックで。いま、僕の頭の中に残っているのは、3人の作家と、その作品のちょっとした存在意義に関するものだ。一人はリチャード・ライト。この人の最も有名な作品は何と言っても「ブラック・ボーイ」だろう。たぶんいまでも岩波文庫で翻訳で読める。この作家の時代は、所謂告発の時代である。アメリカ社会における「黒人」の差別の告発とその差別の構造的な解明が文学というかたちをとって、かなり読まれ、支持された作家だと思う。他にもたくさんの作品があったと思うが、僕の記憶の底には、この作品しか残っていない。その次の世代として華々しく登場するのは、ジェームズ・ボールドウィン。この人の代表作は僕の中では、「もう一つの国」だが、これもたぶん新潮文庫で翻訳で読めるだろう。この時代になると、「黒人」たちのエリートが社会の中に溶け込んでいく時代背景があり、単なる告発の書ではなくて、白人をも巻き込んだ、社会矛盾の暴露という様相になっている。つまりは、肌の色を超えた差別とそれが生み出す社会的矛盾に突き進んだ作家だ。その証拠に、ボールドウィンは、「ジョバンニの部屋」という野心的な作品を書き遺している。かつては白水社から出ていたが、いまはどうなっているかよく分からない。ともかく、この作品には、「黒人」は一人も登場しない。肌の色による差別から、人間の存在が内包する差別への志向を文学的に昇華させた意欲的な作品である。

さて、今日、特に問題にしたいのは、ラルフ・エリソンの「見えない人間」のこと。ハヤカワ文庫で出ていたが、これも現在読めるかどうかは分からない。作品の中からは黒人とおぼしき人間が、アメリカ社会の中で、大っぴらな差別と云うかたちではないが、微細に、巧妙に仕組まれた社会構造の中で、存在することそのものが視えない人間としてしか生き得ない、現代の悲喜劇が描かれていたように記憶する。

話はすっ飛ぶかのように感じかも知れないが、これから書くことはかなりラルフ・エリソンばりの話である。特に「視えない」ことを意識的に生き抜いているエリートたちの野心に関わることだ。僕の関心事は、日本における高級官僚(一般の役人についてはたいして興味はない)たちの生きざまについてである。

彼らはあくまで政治家たちとは違って、政治の表舞台には出て来ない。政治的野心のある少数の官僚たちは、政治家に転身するが、多くのエリート官僚たちは、敢えて裏舞台で政治家たちを操り、生涯賃金で云えば、決して安くはない額の金を税金からクスね取る方法論を網の目のように構築してしまった。官僚の天下りをなくすための法律をいくら躍起になってつくろうと、政治家の命運などは数年単位だ。彼らにとって、どんな政党が政府を牛耳ろうと、大した問題ではない。表面的な政治の激変があれば、しばらくじっと息を潜めていれば、また自分たちの出番は廻って来るし、脱官僚と云っても、彼らなしに政治は行えない。すべての事務的案件・政治的案件の素案は、彼らの存在抜きにはもはや語れないのが日本という国の成り立ちだ。長年の自民党の政治家たちの怠慢が創りだした結末だろう。官僚が、官僚のとしての領分をわきまえるという域を超えさせたのは、どう控えめに見ても自民党の長期政権による堕落が生み出した結果だ。

日本の高級官僚はしぶとい。彼らは、莫大な金を手中にすることはないが、生涯を通して金銭に惑うことのない生活が出来る。有名になり過ぎれば、大金は手に入るかもしれないが、スキャンダルの素材ともなりやすい。彼らは影のごとくに、富裕層のハシクレには名を連ねて生き抜く。それが決して楽ではない、高級官僚たちの労働に見合う金の取り分だと彼らは考えているに違いない。ラルフ・エリソンの「見えない人間」は、見えないことを、負の要素として小説世界に描いたが、日本の官僚たちは、「視えない」ことを選びとった日本的エリートたちだ。ずっと以前、事務次官に成り上がって、天下りして、何不自由のない生活を、飼い犬のことで恨みをかって(何故標的にされたのか判然としない)、妻ともども刺殺された事件があったが、何の関係もない、アホな男の飼い犬のことで殺されるなんて、なんて不条理なんだろうか、とは思う。世界の不条理とは、誰に対しても不意におしよせる。まあ、安心立命なんてことは誰にもあり得ない。だからこそ不条理なんだけど。でも、こういう不条理が押し寄せるリスクをも計算し、リスク回避を考えているのが、高級官僚という怪物たちかも知れないが。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃



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