ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

99%perspiration,and1%inspirationとエディソンは言ったけれど

2008-09-10 03:20:29 | 社会・社会通念
○99%perspiration, and 1%inspirationとエディソンは言ったけれど

もちろん、かの天才発明家であるエディソンは、発明の本質とは、その閃きこそが重要であるにせよ、閃きが新たな発明に必要なのは、総じて全体の精神活動と実験における、わずか1%ほどの存在にしかに過ぎないのであって、創造性溢れる発明の殆どは、99%の汗の結晶たる実験の結果生み出し得るものであることを看破しているのである。
 確かにエディソンが看破したように、人間の諸活動の意味が、発明におけるエディソンの考え方そのものであるような気がしてならない。人間の生の大部分は一見して無意味に見える言動の試行錯誤を通じて、わずか1%の生に対する気づきが僕たちの心の裡に唐突にも思える形で訪れて来るのである。生の真実とはまさにこのような無意味で無価値であるかのごときプロセスを経てこそ、広大な大地を掘り尽くして僅かに得られる金鉱のごとく、価値ある微量な光輝く生の歓喜を呼び覚ましてくれる。角度を変えて言えば、人生とはかくも膨大なる無駄の上に立脚した、切なくも可能性を殆ど奪われた道なき道を闊歩し、深き森の中に分け入るかのごときものである。人生における倦怠感がときとして我と我が身を覆い尽くすのは、わずか1%の生の可能性に行き着くまでの長く、そして辛過ぎる人世航路の避け難い難局ではなかろうか?人が人生に絶望するのは、まさにこのような精神のありようを体現していることに相違ない。

僕に言わせれば、人生において失敗は許されない、というヒステリックな叫びは生の不毛の現れに見える。エディソンが周到に発明の成功に至るまでの数限りなく立ち現れる失敗の連続のプロセスを思い描き、その失敗を1%の輝かしい精神の閃きによって、軽々と失策の壁の高さを乗り越えていったように、僕たちも、自分の生の軌跡の中における失敗だらけの不毛の砂漠を抜け出して、煌々とわき出るオアシスを発見するには、限りなく少ない可能性に懸けてみる勇気のごとき心性がどうしても必要であろう。オアシスは狭隘で、すぐにも枯れてしまいそうな湧水にに見えても、実際は永遠に清らかなるアクオスを地下深くから無際限に汲み出してくる永遠なる存在の象徴でもある。オアシスにあっては、泥にまみれた動物たちも、もとの体の美しさを顕わにしてくれる。人間も例外では勿論ないはずだ。

人生における数々の挫折体験は、決して挫折そのもので終わりはしない。人生における挫折や失敗とは、99%のperspirationという汗の滴とともに流れ去るものでなくてはならない、と僕は思う。生における失策など何が怖いものか!怖れるに足りずなのである。人生のどこからでも再出発できるのである。世の中はあたかも生の可能性を狭めているかのごとき悪政の結果に喘いでいる。現実は確かにそうだ。否定はしない。生きづらい世の中こそ、この21世紀である。

ならば、もはや政治などという日本におけるエセ民主主義などに期待する方がどうかしている。社会保障制度の質はすでにガタ落ちだが、それが機能しているうちは、多いに利用するべきだ。しかし、その一方で、僕たち庶民こそが、エディソンに閃いたたった1%の閃きの可能性を常に信じて生きていくべきなのではなかろうか?生活など、後でついて来るものではなかろうか?僕はこれを書きながら、決して自分を楽観主義者などとは思っていない。生に閃きが訪れたとき、すでにその人の世界は限りなく広がっていると感じているだけである。世界観が拡がれば、生活など何とでもなると僕は信じて疑わない。絶対に希望は失わない。それが信条である。拙いが、今日の観想とする。

○推薦図書「刺青の男」 レイ・ブラッドベリ著。早川文庫。この物語の刺青の男とは、重ぐるしい過去とさらに重ぐるしいかも知れない未来とを一身に背負った人類の姿です。幻想と詩情に溢れた美しい短編集です。ぜひどうぞ。

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長野安晃


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