僕が新興宗教というものに関わったのはこれまでに3回ある。その第1回目は、二人の息子がまだ幼い頃のことで京都府の八幡市に住んでいた頃だった。その宗教の名はエホバの証人という宗教団体だった。僕が、たまたま体調を崩して職場から早退したときに、いまはもう別れた前妻と二人の子どもたちと、数人の人々が家の中にあがり込んで、何やら聖書のようなものと、パンフレットの類のものを素材にして勉強している様子が見えたのである。僕にとっては寝耳に水の出来事であった。前妻に問い正すと、かなり勉強も進んでいると言う。これは困った、と正直に思った。その時点ではどのような宗教なのか、全く分からなかったが、子育てに行き詰まっての行動だった、ということだけは分かった。そういうことならば僕にも責任がある、と感じたが、こういった宗教の類は、子どもが自分の判断力がつく前から一緒に勉強させるようなことには僕は反対だった。もしもその宗教的な考え方が偏っているような場合は、子どもたちの将来に大きな影響を与えかねないからである。というのも、子どもたちがどんな宗教に入ろうと自由だが、それは子どもたちに自分で判断する能力がついてからでの話である、という考えが僕には根強くあったからである。しかし、僕が単に内実も知らずに反対しているだけではお話にならないので、僕も否応なしに、その団体に所属して勉強し、前妻を理解しよう、と思ったのである。幸い僕の勉強は急速に進み、かなりのレベルまで達したのである。大体のことが分かるにつれて、このエホバの証人という宗教はダメだ、と直観したのであった。何故なら、この宗教は多くのインチキカルト宗教と同様に、終末論がその根底にあって、いずれはこの世界は悪魔の力によって滅び去ることになっており、その時にこそ、天から白馬に乗ったキリストが正義の戦士たちを連れて舞い降りてくる、というものである。そして、すでに亡くなった人々も神から選ばれた人々はどんどんと復活してくる、というのがその骨格である。終末は間近に迫っており、そのためにはより多くの信者を集めることが第一課題であり、子どもも学校の勉強や進学の問題などは結果的に後回しでよい、というもので、もし子どもが判断して学校に行くよりは伝導に生の重きを置く、と決めたら、それを親は喜びとする、というような代物であった。前妻とは、思えばこの頃から精神的な距離感があった、と思う。僕は子どもたちのために強くこの宗教から離れるように説得した。が、前妻はあくまで頑固であった。しかし、表面的にはこの宗教とも離れることにはなったが、僕は引っ越しをすることを決心した。それから京都市内の左京区に引っ越した。それでも前妻とこの宗教とは底の方で繋がっていた様子で、左京区の自宅にもその地域のエホバの証人の、「ものみの塔」というパンフレットが郵便ポストに入っていることに気がつくことになった。僕の嫌な予測は残念ながら、当たっていた様子で、上の息子の心の中にはこの宗教の影響が残っていたと見えて、彼の本棚にはこのパンフレットがきちんと整理されて並んでいた。救いは下の子はいまどきの男の子に育ったことだった。上の子は、小説もまともには読まないのに、このパンフレットには熱心に目を通していた様子である。前妻は、そのことにあくまで無関心を装っていた。僕の心の中に憤怒の感情が前妻に湧いたのは、この瞬間であった。離婚するかなり前から、彼女との精神的な距離感は広がるばかりであった。それ以来、10年以上僕と彼女とはセックスレスの夫婦になった。別々の部屋で時を過ごすことになった。もう裂け目は決定的であった。その頃の僕は子どもたちのことが心配で仕方がなかった。しかし、もう前妻には相談など出来ない状況だった。
それからのことはこれまでにも何度か書いたので詳しくは書かないが、僕が47歳のとき、理事会にはめられるようにして学校を追放され、教師でなくなった時点で、彼女の方は僕の離婚提案に簡単に同意した。離婚届けに署名捺印した書類を置いておいたら、いつの間にか、彼女は自分もそれに署名捺印して区役所に出していた。そのことに僕は結構長い間気づかなかった。離婚した二人が同居していたことになる。21年間の結婚生活はこれで終わった。調停にかけることもせず、勿論裁判にかけることもせず、家を処分し、いくぶんかあった蓄財のほぼ全てを前妻に渡して、僕は布団袋と書物とちょっとした服の類だけをもって、家を出た。車を売却した金は、家を処分するまでのローンの支払いにすべて消えた。子どもの居場所も教えられず、前妻も家をその後出た。それが学校教師としての生活と家庭生活の終焉の結末であった。
今度は失意のどん底にあった僕の方が救いを求める気分になった。そして二つの新興宗教に関わった。しかし、僕は、結局のところ二つの宗教のどちらにも深い共感を得ることが出来なかった。二つの宗教ともにたくさんの本が出版されていたが、たぶん、その本の全てを読み尽くした。何らかの真理を得ようと必死だったのであろう。しかし、宗教的天才による書物も、結果的に僕の心をえぐるほどの影響力を持ち得なかった。結局僕がそれらの新興宗教に深く立ち入ることが出来なかったのは、それぞれの宗教に、なにがしかの排他性を感じ取ってしまったからではないか、と今にして思う。それは何も各宗教に悪意があってのことではない。どちらの宗教もそれなりの受け入れ体制は十分に組織として確立していた、と思う。あえて言葉にするならば、その排他性とは、<善良な排他性>とでも言うべきものだった。そしていま、僕は二つの宗教を突き抜けて、もとの無神論者として、あるいは実存主義者として、残りの人生を生きよう、としているのである。それが自分にとって最もふさわしい生きかたのような気がするからである。
〇推薦図書「宗教なんてこわくない」橋本治著。ちくま文庫。この本は地下鉄サリン事件で日本中を震撼させたオウム真理教を主に取り上げています。勿論僕が関わったのはオウム真理教とは無縁の宗教ですが、何故人間が宗教というものに囚われていくか、という深い問いかけもありますので、なかなか哲学的な読み物にもなっています。この世界を生き抜くための参考にもなる、と思います。
それからのことはこれまでにも何度か書いたので詳しくは書かないが、僕が47歳のとき、理事会にはめられるようにして学校を追放され、教師でなくなった時点で、彼女の方は僕の離婚提案に簡単に同意した。離婚届けに署名捺印した書類を置いておいたら、いつの間にか、彼女は自分もそれに署名捺印して区役所に出していた。そのことに僕は結構長い間気づかなかった。離婚した二人が同居していたことになる。21年間の結婚生活はこれで終わった。調停にかけることもせず、勿論裁判にかけることもせず、家を処分し、いくぶんかあった蓄財のほぼ全てを前妻に渡して、僕は布団袋と書物とちょっとした服の類だけをもって、家を出た。車を売却した金は、家を処分するまでのローンの支払いにすべて消えた。子どもの居場所も教えられず、前妻も家をその後出た。それが学校教師としての生活と家庭生活の終焉の結末であった。
今度は失意のどん底にあった僕の方が救いを求める気分になった。そして二つの新興宗教に関わった。しかし、僕は、結局のところ二つの宗教のどちらにも深い共感を得ることが出来なかった。二つの宗教ともにたくさんの本が出版されていたが、たぶん、その本の全てを読み尽くした。何らかの真理を得ようと必死だったのであろう。しかし、宗教的天才による書物も、結果的に僕の心をえぐるほどの影響力を持ち得なかった。結局僕がそれらの新興宗教に深く立ち入ることが出来なかったのは、それぞれの宗教に、なにがしかの排他性を感じ取ってしまったからではないか、と今にして思う。それは何も各宗教に悪意があってのことではない。どちらの宗教もそれなりの受け入れ体制は十分に組織として確立していた、と思う。あえて言葉にするならば、その排他性とは、<善良な排他性>とでも言うべきものだった。そしていま、僕は二つの宗教を突き抜けて、もとの無神論者として、あるいは実存主義者として、残りの人生を生きよう、としているのである。それが自分にとって最もふさわしい生きかたのような気がするからである。
〇推薦図書「宗教なんてこわくない」橋本治著。ちくま文庫。この本は地下鉄サリン事件で日本中を震撼させたオウム真理教を主に取り上げています。勿論僕が関わったのはオウム真理教とは無縁の宗教ですが、何故人間が宗教というものに囚われていくか、という深い問いかけもありますので、なかなか哲学的な読み物にもなっています。この世界を生き抜くための参考にもなる、と思います。