僕たちの人生とはよく考え詰めても訳のわからないものである。誰を親に選び取ることも出来なければ、最後はいくら家族に見守られたって、死は一人で引き受けねばならない。せめて愛人にでも一緒に死んでおくれ、と言ったところで、その言葉すら虚しいほどに、死は一人ぼっちでやって来る。これは公平なことだから、と人は言うが、ここにも不公平さがあることを忘れてはならない。人は生まれても来れない人がいるのである。堕胎もあるし、生まれてすぐの病気による死もある。死はどうか? 金次第ということも大いにあり得る。治療がまず違ってくる。いくら金を積んでも死に時が多少延びる程度であるが、金をかけた治療で助かり、金がなかったために助からなかった、ということもあるので、ここでも大いなる不公平が起こり得る。
金持ちの親に生まれただけで、その子は、僕のような貧乏人の生活を強いられることはないに違いない。一人でがんばってもご褒美が異なるのだ。学校の選択も異なってくるし、教育というものに費やすお金も全く違う。金さえあればそれほど頭の出来がよくなくても3、4流どころの医学部か歯学部に入りさえすれば、その若者は国家試験だけはそういう医学部はよく面倒を見てくれるから、ちゃんと医者や歯科医になれる。そうなれば、一生、安泰である。彼らは開業して楽に外車を乗りまわす。頭がよくて、一生懸命勉強して国立か公立の医学部や歯学部に入っても一生涯勤務医で終わる医者もいる。
人は一人で生まれ、一人で死んでいく、という問題には、実はこのように限りない不公平の要素が含まれているのである。病気、お金、などの避けられない要素については、限りなく不公平なのである。不公平どころの騒ぎではない。不条理の極みである。だからこそ人生を投げる人も出てくる。人生からの途中下車だ。自殺。もうこんな人生に厭き厭きした、というものもあれば、お金があっても何かがうまく行かなくなってしまった、ということが起こり得る。それもあり、だ。
で、僕はどうかというと、正月からのゴタゴタで、結局、天涯孤独になった。もう自分の親類縁者はいない、というところに追い込まれた。後は基本的には血の繋がりのない家内とその縁者だけである。二人の息子たちは当てにも何にもならない。以前の家内と金だけ持って出ていった。どこにいるかも分からない。たぶん、僕が文字通り一人で死んでいっても、その死んだ、という事実さえ知らされないのではないか、と思う。その意味ではまさに僕らしい一人ぼっちの死であろう。
というところまで書いて、僕は悲観的にこの世界を生きるのか、あるいは楽観的にこの世界を生きるのか、という問題に突き当たった。僕の選ぶべき道は一つしかないように感じた。悲観的にこの世界を捉えるなら、いまが死に頃、だ。だが、いまが死に頃だ、とは思えない。ただ、そう直観するだけで特に何か楽しみがある、というのではない。そうであってみれば、もうここまでくれば、好きな小説でもたっぷりと読んで、それを人の役に立てるでもなく自分だけの楽しみにして、死が向こうからやってくるまで、楽天的に生きるよりは仕方がないではないか。それが、自分の生き方、であると定めるしかないではないか。53歳まで殆ど光が輝くようなことがあったとは到底思えぬ人生だったが、あと数年か十数年かは知らぬが、それまでは、楽天的に生きてやろうではないか。それしか、残された道はないではないか。悲観的になれる人は、僕のカウンセリングを受けにきなさい。そうであれば、カウンセリングが終わったら少しは楽しくはなること請け合いである。だって僕は自分のために生を楽しんで生きているんだから。それも不条理故に、ですよ。
〇推薦図書「光りあるうちに光りの中を歩め」トルストイ著。岩波文庫。楽天的に生きると言ってもただへらへらとしていると本物の楽天家にはなれない。今日はその意味で思想的に楽天主義の根底を支えてくれるような書を紹介します。
金持ちの親に生まれただけで、その子は、僕のような貧乏人の生活を強いられることはないに違いない。一人でがんばってもご褒美が異なるのだ。学校の選択も異なってくるし、教育というものに費やすお金も全く違う。金さえあればそれほど頭の出来がよくなくても3、4流どころの医学部か歯学部に入りさえすれば、その若者は国家試験だけはそういう医学部はよく面倒を見てくれるから、ちゃんと医者や歯科医になれる。そうなれば、一生、安泰である。彼らは開業して楽に外車を乗りまわす。頭がよくて、一生懸命勉強して国立か公立の医学部や歯学部に入っても一生涯勤務医で終わる医者もいる。
人は一人で生まれ、一人で死んでいく、という問題には、実はこのように限りない不公平の要素が含まれているのである。病気、お金、などの避けられない要素については、限りなく不公平なのである。不公平どころの騒ぎではない。不条理の極みである。だからこそ人生を投げる人も出てくる。人生からの途中下車だ。自殺。もうこんな人生に厭き厭きした、というものもあれば、お金があっても何かがうまく行かなくなってしまった、ということが起こり得る。それもあり、だ。
で、僕はどうかというと、正月からのゴタゴタで、結局、天涯孤独になった。もう自分の親類縁者はいない、というところに追い込まれた。後は基本的には血の繋がりのない家内とその縁者だけである。二人の息子たちは当てにも何にもならない。以前の家内と金だけ持って出ていった。どこにいるかも分からない。たぶん、僕が文字通り一人で死んでいっても、その死んだ、という事実さえ知らされないのではないか、と思う。その意味ではまさに僕らしい一人ぼっちの死であろう。
というところまで書いて、僕は悲観的にこの世界を生きるのか、あるいは楽観的にこの世界を生きるのか、という問題に突き当たった。僕の選ぶべき道は一つしかないように感じた。悲観的にこの世界を捉えるなら、いまが死に頃、だ。だが、いまが死に頃だ、とは思えない。ただ、そう直観するだけで特に何か楽しみがある、というのではない。そうであってみれば、もうここまでくれば、好きな小説でもたっぷりと読んで、それを人の役に立てるでもなく自分だけの楽しみにして、死が向こうからやってくるまで、楽天的に生きるよりは仕方がないではないか。それが、自分の生き方、であると定めるしかないではないか。53歳まで殆ど光が輝くようなことがあったとは到底思えぬ人生だったが、あと数年か十数年かは知らぬが、それまでは、楽天的に生きてやろうではないか。それしか、残された道はないではないか。悲観的になれる人は、僕のカウンセリングを受けにきなさい。そうであれば、カウンセリングが終わったら少しは楽しくはなること請け合いである。だって僕は自分のために生を楽しんで生きているんだから。それも不条理故に、ですよ。
〇推薦図書「光りあるうちに光りの中を歩め」トルストイ著。岩波文庫。楽天的に生きると言ってもただへらへらとしていると本物の楽天家にはなれない。今日はその意味で思想的に楽天主義の根底を支えてくれるような書を紹介します。