○書いても書いても尽きることがない!
カウンセラーとしてのブログという観点でみるならば、僕の書くものは、まったく的外れなものばかりなのかも知れません。しかし、そもそもカウンセラーの定義が、数あるカウンセリングルームに散見できるブログなどを読んでいると、僕のそれとはまったく異なるのかなあ、と思います。違う!という方もいらっしゃるとは思いますが、まず大抵のカウンセラーさんのブログは、癒し系を気どった、あくまで相談を受ける側の立場からの発信ですね。だから、読むことはたまにはありますけれど、どなたのを読んでも本質的にはたいした違いはないわけです。もっと突っ込んで云うと、おもしろくもなんともない。おもしろい、とは、読み通す意欲が湧かないと云う意味です。カウンセリング手法の違いを説明されているのであって、それ以外のネタは、ご自身のカウンセリングがいかにクライアントさんにとって有効かということに特化しています。まあ、プロパとしての役割が彼らの書くブログの意味なんでしょう。
それに比して、僕の書くブログは、自分でも明記していうように、僕自身の人生の総括集です。テメエの勝手な生き方の総括なんて意味がないんだよ、という方もいらっしゃって当然。そういう方はすっ飛ばしてくださって何ら構わないのです。しかし、自己の人生の総括なんだから、具体的な経験をずらずらと書きなぐっているのだろうと思われる方がおられるなら、僕は大いなる反論をしなければなりません。確かに、総括の中で語る話題の多くは、僕自身の人生行路で起こった出来事を素材にしています。が、そこで終わっていたら、単なるグチです。読まされる側はたまったものではないでしょう。書くべき素材は、自分の生きてきた内実を再現しているかにみえますが、実はそうではない。そもそも、素材自体に当然のことながら、書きたき核心にむすびつくような創作が混然一体と溶け込んでいます。その意味においては、日本のかつての文学ジャンルとして一世を風靡した「私小説」の素材よりも創作性の比率は比較にならないほどに高いと思います。口はばったいようですが、敢えて、このように書き置きます。
確かに、実際のカウンセリングの場では、僕もいっぱしのカウンセラーですから、クライアントの苦悩をしっかりと受け止める側の人間です。しかし、ここにおいても、他のカウンセラーさんとの違いは歴然としています。カウンセリングの基調は傾聴にあるといいます。これは否定しません。クライアントさんの訴えに耳を傾けることなくして、問題解決の道はあり得ませんから。ところが、一般的な傾聴とは、何度も重ねるカウンセリングにおいて、クライアントが語る言葉の重要性をクライアント自身に悟らせるまで粘っこく回を重ねるのです。カウンセリングは健康保険適用外ですから、カウンセリング料はずいぶんと高くつきます。そして、何度も何度も通いつめているクライアントさんの心情からすれば、果たして、これですっきりとした解決策が見い出せているのかしらん?という、かなり消化不良の観想しか洩れでて来ないのが実情ではないのでしょうか?このような現状を批判して、具体的助言なきカウンセリングなど無効。無用の産物だと言い切る精神科医もいらっしゃいます。岩波明さんは、売れっ子の精神科医ですが、この人のカウンセリング無効論は痛烈です。ところが、僕はこの人が大好きなのです。なぜなら、僕のカウンセリングにおける主義主張と同じことを精神科医の立場からオ―ケストレイティッド(声高に)に書いているだけなんですから。
僕のカウンセラーとしての基本的姿勢は、クライアントと一回面談して、少なくとも何がしかの具体的助言が出来ないようなカウンセリングは、無効だと考えているものです。その意味で、心理学とは、あくまで僕にとっての人間洞察の入り口論であって、それ以上のものでも、それ以下でもない。僕の裡なる洞察力、想像力、創造力の源泉は、文学を、あるいは哲学を、社会学を、経済・経営学等々を通過して、また、もっと言えば、学校教師の前は、70年安保闘争の運動家として、教師時代も思想的にはまるで相容れない共産党員の組合員の指導者であり、学校を喰い物にする大宗教教団に対する変革の急先鋒でした。勝敗の結末は僕の側の大敗です。けれど、この経験が僕に、自分の力でもないのに、出来あがった地位や権威にふんぞり返っている人間に対する限りなき反措定として生きつづけようと思わせたのです。そもそも精神疾患を併発させる心理的抑圧を加えているのは、他ならぬ権威に胡坐をかいている人間たちですから、クライアントさんに対して、僕が、具体的な立ち直りのための助言、闘い方に関して確信を持って言えないはずがないのです。カウンセリングによって、傷ついた心を癒されたい!分かりますよ。でも、傷ついた心の根本を解決しない限り、いかなる癒しも必ずその場限りのものになり下がってしまうのは目にみえています。僕はそういうカウンセリングはしたくはない。あくまで、問題解決のためのカウンセリングを目指します。だからと云って、コーチングの類の、上から目線の、飼育的な精神の改造など反吐が出るほど嫌いです。
僕のブログは、素材としては僕自身の成育歴の中から拾い出しているものが多いのですが、それはあくまで、読んでいる人たちが、自分のこととしても一般化出来るような読み物に仕上がっているはずなのです。書き始めの当初はご多分に洩れず、宣伝のためのブログを書きました。しかし、書いていて、ちっともおもしろくない。感情移入なんて出来っこない。それなら、特に時間を割いて書く値打ちがないわけで、売れない小説か、エッセイ本でも書いて、出版元に持ち込む方がどれほど意味があるかわかったものではない、と思ったわけです。書くなら、普遍化できるもの、一般化し得るものでなければ、自己満足的な回想の羅列になってしまいます。そうならないように書きつづけようか、と思って、もはや、Gooブログの「ヤスの雑草日記」には、1000作品(敢えて作品といいますよ)をはるかに超える素材がつまっています。時間が許すかぎり、読んでいただけることを願って、これからも、あと少しは書き綴っていきます。まだまだ、書き尽くせていないことが、たくさんあるもので。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
カウンセラーとしてのブログという観点でみるならば、僕の書くものは、まったく的外れなものばかりなのかも知れません。しかし、そもそもカウンセラーの定義が、数あるカウンセリングルームに散見できるブログなどを読んでいると、僕のそれとはまったく異なるのかなあ、と思います。違う!という方もいらっしゃるとは思いますが、まず大抵のカウンセラーさんのブログは、癒し系を気どった、あくまで相談を受ける側の立場からの発信ですね。だから、読むことはたまにはありますけれど、どなたのを読んでも本質的にはたいした違いはないわけです。もっと突っ込んで云うと、おもしろくもなんともない。おもしろい、とは、読み通す意欲が湧かないと云う意味です。カウンセリング手法の違いを説明されているのであって、それ以外のネタは、ご自身のカウンセリングがいかにクライアントさんにとって有効かということに特化しています。まあ、プロパとしての役割が彼らの書くブログの意味なんでしょう。
それに比して、僕の書くブログは、自分でも明記していうように、僕自身の人生の総括集です。テメエの勝手な生き方の総括なんて意味がないんだよ、という方もいらっしゃって当然。そういう方はすっ飛ばしてくださって何ら構わないのです。しかし、自己の人生の総括なんだから、具体的な経験をずらずらと書きなぐっているのだろうと思われる方がおられるなら、僕は大いなる反論をしなければなりません。確かに、総括の中で語る話題の多くは、僕自身の人生行路で起こった出来事を素材にしています。が、そこで終わっていたら、単なるグチです。読まされる側はたまったものではないでしょう。書くべき素材は、自分の生きてきた内実を再現しているかにみえますが、実はそうではない。そもそも、素材自体に当然のことながら、書きたき核心にむすびつくような創作が混然一体と溶け込んでいます。その意味においては、日本のかつての文学ジャンルとして一世を風靡した「私小説」の素材よりも創作性の比率は比較にならないほどに高いと思います。口はばったいようですが、敢えて、このように書き置きます。
確かに、実際のカウンセリングの場では、僕もいっぱしのカウンセラーですから、クライアントの苦悩をしっかりと受け止める側の人間です。しかし、ここにおいても、他のカウンセラーさんとの違いは歴然としています。カウンセリングの基調は傾聴にあるといいます。これは否定しません。クライアントさんの訴えに耳を傾けることなくして、問題解決の道はあり得ませんから。ところが、一般的な傾聴とは、何度も重ねるカウンセリングにおいて、クライアントが語る言葉の重要性をクライアント自身に悟らせるまで粘っこく回を重ねるのです。カウンセリングは健康保険適用外ですから、カウンセリング料はずいぶんと高くつきます。そして、何度も何度も通いつめているクライアントさんの心情からすれば、果たして、これですっきりとした解決策が見い出せているのかしらん?という、かなり消化不良の観想しか洩れでて来ないのが実情ではないのでしょうか?このような現状を批判して、具体的助言なきカウンセリングなど無効。無用の産物だと言い切る精神科医もいらっしゃいます。岩波明さんは、売れっ子の精神科医ですが、この人のカウンセリング無効論は痛烈です。ところが、僕はこの人が大好きなのです。なぜなら、僕のカウンセリングにおける主義主張と同じことを精神科医の立場からオ―ケストレイティッド(声高に)に書いているだけなんですから。
僕のカウンセラーとしての基本的姿勢は、クライアントと一回面談して、少なくとも何がしかの具体的助言が出来ないようなカウンセリングは、無効だと考えているものです。その意味で、心理学とは、あくまで僕にとっての人間洞察の入り口論であって、それ以上のものでも、それ以下でもない。僕の裡なる洞察力、想像力、創造力の源泉は、文学を、あるいは哲学を、社会学を、経済・経営学等々を通過して、また、もっと言えば、学校教師の前は、70年安保闘争の運動家として、教師時代も思想的にはまるで相容れない共産党員の組合員の指導者であり、学校を喰い物にする大宗教教団に対する変革の急先鋒でした。勝敗の結末は僕の側の大敗です。けれど、この経験が僕に、自分の力でもないのに、出来あがった地位や権威にふんぞり返っている人間に対する限りなき反措定として生きつづけようと思わせたのです。そもそも精神疾患を併発させる心理的抑圧を加えているのは、他ならぬ権威に胡坐をかいている人間たちですから、クライアントさんに対して、僕が、具体的な立ち直りのための助言、闘い方に関して確信を持って言えないはずがないのです。カウンセリングによって、傷ついた心を癒されたい!分かりますよ。でも、傷ついた心の根本を解決しない限り、いかなる癒しも必ずその場限りのものになり下がってしまうのは目にみえています。僕はそういうカウンセリングはしたくはない。あくまで、問題解決のためのカウンセリングを目指します。だからと云って、コーチングの類の、上から目線の、飼育的な精神の改造など反吐が出るほど嫌いです。
僕のブログは、素材としては僕自身の成育歴の中から拾い出しているものが多いのですが、それはあくまで、読んでいる人たちが、自分のこととしても一般化出来るような読み物に仕上がっているはずなのです。書き始めの当初はご多分に洩れず、宣伝のためのブログを書きました。しかし、書いていて、ちっともおもしろくない。感情移入なんて出来っこない。それなら、特に時間を割いて書く値打ちがないわけで、売れない小説か、エッセイ本でも書いて、出版元に持ち込む方がどれほど意味があるかわかったものではない、と思ったわけです。書くなら、普遍化できるもの、一般化し得るものでなければ、自己満足的な回想の羅列になってしまいます。そうならないように書きつづけようか、と思って、もはや、Gooブログの「ヤスの雑草日記」には、1000作品(敢えて作品といいますよ)をはるかに超える素材がつまっています。時間が許すかぎり、読んでいただけることを願って、これからも、あと少しは書き綴っていきます。まだまだ、書き尽くせていないことが、たくさんあるもので。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃