今に始まったことではないけれど、ここ10年の僕は短気でした。
ここ10年というのは大雑把に言って、“20代の自分は”ということですが、なんだかんだと批判的になっていて、あまり褒められた性格じゃなかったと思う。
じゃあ、10代やそれ以前の頃はどうだったかというと、今のような感じではなくて、もっと穏やかだったと思う。自分でそんなことを言うのはおかしいけれど、少なくとも今のように内心で誰かを悪く思ったり、けなしたり、批判したりはしてなかった。
2010年は特にそういう傾向が強く出てしまって、家族にも良くない影響を与えてしまったように思う。これを東洋占の暦で考えると、まだ庚寅年は続いているので、そうした影響が尾を引かないように自分を戒めないと。
というわけで、ネガティブな抱負ではあるんですが、今の自分の課題は、
「人を批判・中傷しないこと」
です。
相手の短所や欠点に注意を向けすぎてイライラした時間を過ごすのは、ハッキリ言って無駄な時間だし、なんのメリットもない。むしろ自分の心を歪ませ、醜くさせるデメリットだらけでのものあることを理解すべきだ。(・・・と自分に教え込む)
より進んでポジティブに考えるならば、「相手を認めること」、あるいは「相手の境遇(事情)を理解しようとすること」、できれば「相手の長所に目を向けること」。
そして、「相手のことで気を揉んでいる時間があったら、自分のすべきことに集中するようにすること」。たぶん、これ一つでもできれば随分と変わると思う。
正直言って、聖書の「汝、隣人を愛せよ」というのは、至言だと思う。ただ、いまの自分にとってはちょっとハードルが高いかもしれない。いつも実践できたら凄いことだと思う。でも、心が廃れてしまっている時は、気に入らない人はやっぱり気に入らないと、つい苦い顔をしてしまう。
振り返ってみると、自分の顔って、10年前とかなり変わった気がする。
自分の写真ってほとんどないから、もう記憶の中でしかないけれど、ふと鏡を見ると時々そう思う。疲れた顔とか、やつれた顔と言えば、確かに病気がちなので、それもそうなのかもしれない。
でも、その原因となっているのは、やっぱり心それ自体の荒廃なんだと思う。
日常生活の中で、しかめっ面をしたり、悪態をついたり、批判したり、怒ったり、愚痴ったり、イライラを抱え込んだりを繰り返している内に、だんだんと気持ちが淀み、心の花が枯れ(姪っ子が見てるプリキュアでそう言っていた!)、それが現実の歪みや苦痛をもたらしてきたんじゃないかという気がする。
昨年の後半から、そうしたことのピークを迎えたんじゃないかと思う出来事が続き、かなり精神的にピリピリした日々を送ってきました。いえ、現実には今も継続中です。だからこそ、ここに書いてきたようなことを痛切に実感します。
僕は、こうした状況を何とか変えたい。
その原因を作った人に詰め寄って、相手に変わってもらうというのも一つの方法かもしれないけれど、あまりそれはしたくない。だから、まずは自分の心を制御するほうに気持ちを向けようと思う。
ところで、いま勉強している四柱推命で考えてみると、自分の大運は、ほぼ10歳・20歳・30歳・・・で切り替わる計算になります。
透派式の読み方だと外格(崩れ)になるためか、10年ごとの運気の変動が激しい。これは根や蔵干の影響で、大運での五行の出現が命式の構成を相当に変えてしまうからです。
ただ、生まれた時点では外格的でも、その後の大運を見ると、60代・70代にならないと、命式のような外格にはならず、それ以前はずっと微旺か身平で、くすぶっている状態。なんだかパッとしないというか、いま一つ覇気が足りない感じ(・・・こんなことを自分で書いてると空しいだけだけど)。
一方、別の見方というか、蔵干を含めた場合では、五行の調和性が比較的高い(75%を超える)生まれとなり、白帯的には気質が65%程度なので微旺と出ます。これだと全くの内格です。で、20代や30代は少し下がって身平か微弱になってますが、調和性はその分上がり、極端度(偏向性)は下がってます。
(※旺相死囚休のカスタマイズ設定によって値は変わってきます。今の僕は「蔵干を含める」場合はType2か4を比較して見ることが多いです。で、喜忌も動的に採る。)
で、問題は、双方の見方で喜忌が異なってしまうということ。
現実の自分に当てはまる方はどちらか、とは日々考えているけれど、判断は難しい。
ネットや書籍で喜忌に関することを調べていますが、まだどちらとも言えなくて決めかねています。判断それ自体が個々の主観による所もあるのかもしれないけれど、客観的に見て確かにこっちが作用しているようだと言える例は少ないです。しかしそれにしても、別の行運では通用しなかったりする。妙な矛盾・・・。(単に計算の仕方が悪いのかもしれないけれど)
個人的には、これまで生きてきた経験と感覚からは、動的に外格になる時期に恵まれているとは言えるとは思う(→僕は、天干を主体とするならば火と土だけの従強格。冬生まれだったりで火炎土燥の条件とは合わないとは思うけど、実はよく知らない)。この点から考えるならば、喜忌的には蔵干抜きの外格としてみた方が当たっているようではある。
ただ、それだと単に自分にとって好ましい、というだけで、他の人にまで良い影響を与えてきたかと言うと別にそうでもないと思う。喜と言えば喜ではあったかもしれない。でも、ただの独り善がりだったことも多い気がする。自分にとっていいだけ、というのは、実際あまり面白くない。
もちろん、それは僕の命式の構成上そうなるというだけで、他の人の場合、自分の調子のいいときに、その恩恵を周りにも振り向けられるのかもしれない。いわゆる扶抑の喜忌と調候の喜忌とが重なる人。
つまり、自分(個人)が向かう方向性と、社会(集団)が向かう方向性が同じだったり、一致することが多い生まれの人で、これは調候=季節との関係や大運(+世運も?)との関係により一人ひとり按配が違っています。皆がみんなそうじゃないから、多様性が生まれるんだろうけど。
反面、蔵干を含めた場合も否定できないのは、その人の潜在性も重要だと思うからです。
このポテンシャルが現実の能力(アビリティ)として発現する時期は、別にどちらの方法によっても傾向はつかめます。ただ、天干のみの場合、初め(出生時)の段階で、どの程度のポテンシャルが眠っているのかが分からない。もしくは分かりにくい。また、どの程度のレベル(力量)で発現するかも読み取りづらい。
だから、これに関しては蔵干込みで把握するほうがいいと思う。その人に備わっている資質や才能の中で、何が最も開花しやすそうか、あるいは逆に開花が難しそうか(時間が掛かりそうか)、その蓄積の度合いを考えるには必要になるだろうから。
(「天干のみ」でも根の作用から推測することもできるけれど、力量値として視覚的に把握できるほうが分かりやすいし。)
話を自分のことに戻すと、天干が火と土しかない自分にとって、水旺の生まれで、かつ水が盛んになる20代・30代は、心身共に変調をきたしやすいのかなーと思う。ごく単純な見方をすれば、水剋火で、印の加護を消され、土剋水で、溢れそうになる水を堰き止めるのに体力を消耗してしまってる、そんな感じなのかもしれない。
もしそうなら、さらに水が増える30代は、20代より厳しいものになるのだろうか?(すでになってる?)
それとも、陰陽(通変など)の違いから、これまでとは違った流れになるのだろうか。いや、そうした流れを自分で作り出せるのだろうか、と考えたほうが良さそうだ。
とにかく、今の自分の課題は、先に書いたように「人を悪く言わないこと」。
自分のことを棚上げして責任転嫁しないこと。(自分の苦しみを誰かのせいにしないこと)
自分自身の失敗は、自分で責任を持って処理すること。
家族や身内に良い影響を与えられるようになること。
(これらは数秘術での年運数6に通じる。)
そして、その先に、「愛情を持って人と接すること」があると、今は思う。
目標としては「おさるのジョージ」に出てくる、“黄色い帽子のおじさん”。
どんなにジョージがハチャメチャなことをしても、親愛の心をもって接し、許し、むやみに怒らない。(基本的に、あの番組の登場人物はみんな心が広いけど)
僕は、彼のような寛容な心を持ちたい。
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