今回も以前から訳したいと思いつつ、ずっとできていなかった方の文章を訳しました。
この方(Roxana Jonesさん)のツイッターもフォローしていて、時々彼女のブログやサイトを見に行くのです。
やっと一つ紹介できてよかったと感じていますが、あんまり上手く訳せなくて、自分的にショックです。
他にも沢山のステキな記事があるので、折を見ては紹介していきたいと思っています。
=====================================================================
http://roxanajones.com/2012/11/16/a-moment-in-time-november-16th-2012-can-the-word-giving-have-a-different-meaning/
A Moment in Time: November 16th, 2012. Can the Word ‘Giving’ have a Different Meaning?
時の瞬間:2012/11/16 「与える」という言葉には他の意味がある?
“人生の最大の奇跡は、寛大さを与えることと、あなたが与えたものが多様な形でどのようにあなたへと戻ってくるかを見ることです。”~ロクサーナ・ジョーンズ
数週間前、私は上記の内容を別のソーシャル・メディア・アカウントを通じて inspiration quote に掲載したのですが、そこで私は異なる文化やイデオロギーおよび信条を抱く多くの人々からの反響を得て感銘を受けました。
一般的に言って私の言葉は、あたかも与えるという行為が次のことだけを意味すると解釈されました。すなわち、私達人間が与えたり提供したりする「もの/こと」というのは「物」であることが自然で、もっ具体的に言えば、それはお金や食べ物のようなものでなくてはならない、というものでした。
この書き込みは、私達がどのような問題に焦点を当てているかを私に気づかせてくれました。明らかに、ほとんどの人は物質を通じて起きるのとは違う種類の与えるということに注意を払っていません。それは私達の思考や感情からのみ起こります。
どんな種類の思考だったら、私達の外的な現実に「与えて」いけるのでしょう? どんな種類の感情だったら、私達が真新しい日に目覚める度、交流する人々に「与えて」いけるのでしょうか?
真に与えるには、私達が与える「もの/こと」を大量に持っていなければならない、などとは私は思っていません。もちろん、それも一つのあり方ですが、でも一部分に過ぎません。私が信じていることは、私達が与えることの大部分は、私達が絶えず送り出している思考や感情を通じて届けられる、ということです。
要点をつかめるでしょうか? 与えることや皆さんが提供していることというのは、必ずしも「物の問題」ではなく、「思考や感情の問題」であるということにお気づきになるでしょうか? いったんこの事実を信念体系の中に組み込めば、私達は次のことを理解できるようになります。それは、私達の「物質的な贈り物」というのは、私達の「内的な贈り物」の結果であるということです。言い換えれば、寛大さは私達が与えるお金や物によっては量れず、実際には私達がかつて創り出した、または今創り出している思考や感情によるものであり、私達がそれらを変えたくないかその必要性を感じなければ、自動的に再創造され続けるのです。
素晴らしいことです! この「発見」は私の人生を変えました。それも沢山のポジティブな方法で。皆さんにもそれが起こるように願っています。
では次の時まで。愛でいることを忘れないで下さいね!
Roxana
- Translation: C.I.
=====================================================================
正直に言うと、このコメントを読んだ時、感情的に引っかかるものがあって、ちょっとムッとしてしまったんです。
でも、その後、先に訳した「一なる力」の内容と、今訳しているUteさんの「MESSAGE FROM OUR GOD-SELF: YOU ARE A RADIANT WAVE IN MY WATER」の内容が密接に繋がっていると分かり、大いに反省しました。
ゆきさん、このコメントを残してくれて本当にありがとう。
>まるまるまるたさん
上手く原文のニュアンスを反映できなかったところを解説して頂いた上に、派生する具体例を示して下さったことで、多くの面で僕の翻訳上の不備が補完されたように思います。なんともありがたい限りで、心から感謝致します!
「貧しい人は美しい」と常々マザーは言われていたようです。
この本のP221に、マザーのあるエピソードがあります。
引用:
「私はある日、托鉢で得たわずかな米を、スラムに住むやせ衰えた主婦に分け与えました。するとどうでしょう。彼女は、そのわずかな米をさらに半分に分けて、裏の家に持っていったのです。私があなたの家族は十人もいるのにそんなに少なくて大丈夫なの、ときくと、彼女はニッコリ笑って、でもあの人の家はもう何日も何も食べていないのです、と答えたのです。(後略)」
引用終わり。
「もの/こと」を与えているとき、その上には、その送った人の心が重なっている。
たとえわずかなものでも、それを分け与えるという時に自分がそれに載せる想いというものは、「もの/こと」の金銭的価値では測れない。
与えるってことはそういうpricelessなものなのでしょうね。
カレー食べたい日もあれば、おうどん食べたい日もある訳で。どうしてもパンが良い日に、どんなにオムライスを作ろうと思っても無理!みたいな。笑