いつも僕のブログを訪れて下さり、ありがとうございます。
今回の記事は、いつも訳しているUteさんの8月9日付けのブログエントリーです。
あくまで自分にとってですが、普段あまり見慣れない話法?のようなものが多くて、訳すのに随分と苦慮しました。
そのため、きちんと意味が取れていない箇所もあるかもしれません。まだまだ未熟であることを痛感します。
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http://radiantlyhappy.blogspot.jp/2012/08/total-freedom-in-midst-of-this.html
THURSDAY, AUGUST 9, 2012
TOTAL FREEDOM IN THE MIDST OF THIS!
2012年8月9日(木曜日)
この(現実の)真っ只中での完全な自由!
by Ute Posegga-Rudel
親愛なる兄弟姉妹へ、
アセンションと私達がいる現実は全くの別物です。
アセンションは、次のような概念を示唆しています。すなわち、外的状況が変化するや否や、また身心一如なる(ボディ-マインドに自己同一化した)存在として、より大きな自由と、千年間に亘り私達を支配してきた人々による“奴隷状態”の終わりを経験するや否や、私達はもっと幸福になるだろう、ということです。彼らが本当に(奴隷状態になるように)したのでしょうか、それとも、私達が私達自身を奴隷にするように許したのでしょうか?
多くの人は、「もうこれ以上は待てない、“ホーム(故郷)”に帰りたい」と言っています。
しかし、ホームとは何でしょう?
ホームとは、ここにあるものとは別の場所にあって、もしかしたらそれがボディ-マインド(身体と精神・頭脳の働き)をもっと純化させるようにもてなしてくれるのでしょうか? 異なって見える他の次元が、“より”微細で、“より”完全で、“より”美しいのでしょうか?
このようなことが、私達を幸せに“してくれる”ものなのでしょうか? 本当に私達は、環境の変化に従って自分達が誰なのか定められる形で存在できるに過ぎないのでしょうか?
アセンションに注目が集まるこの時期、悟りに関する古代の教えは無視され忘れられているように見えます。まるでそれは、私達の状況から逃げ出そうとしているかのようです。その一方で、私達の最上かつ最重要な真の本質であるかのように、互いの条件的な“心の優しさ”を確認する傾向があります。
私は自分自身に深く問いかけずにはいられません。それだけでなく、根本的なレベルでの私達の存在に関する真実の探検と経験をせずにはいられません。
ええ、時々私は疲労感も感じます・・・守られない約束の果てしない反復というこの世界での在り方に。今でさえ再三再四、未だに私達のタイムラインを操作している勢力があった/あるという可能性が示され、そのために無限に見える有限の時という抜け穴に私達が捕らえられたように思えるのです。
ただ、そうなったら私は自分自身を思い出すようにするのですが、まさにこれは一線を越える挑戦です。これを通して私達に示されることは、私達が無限の存在(次元的な存在ではなく!)、永遠の存在、永遠の聖なる意識と愛・至福・光の純粋な輝きの存在である間、どうやって私達は制限を課した自分自身を識別するのかということです。まさかその時に、私達が幽閉されてしまう幻想にだまされるなんてことがあり得るでしょうか?
現段階では地球は、どんな次元をも超えて、幻想を超越するための、また私達が本当は誰であるかを思い出すための学校ではないでしょうか? ここにやって来るというこのゲームのルールの存在を忘れることに、私達は同意しなかったのではありませんか?
そして、私達が経験することや信じることが本物ではないのでしょうか? 私達がここにいるのは、マインドを学んで超越していくためではないのですか?
私は、私達が経験している全ての不幸に対して狂気の支配者を非難する被害者意識には同意しません! 彼らは私達自身の信念を映し出しているだけであり、この人間の生の中で私達が経験することを同意した事柄なのです。
従ってアセンションとは、まず第一に意識における成長が挙げられ、そしてこれがあらゆる状況を引き起こします・・・今ここ、依然として監獄の惑星にあっても。
私達は自由になれます。私達自身の真の性質である完全な自由を経験できるのですよ、あらゆる状況の真っ只中で。そして、私達がさらにそうすれば、この未だ奇妙な世界は、私達に影響を与えることがほとんどできなくなります。主に、私達の現実が次第に失われていることが、その理由です。
私は、白昼夢のような気にかかる自由の経験について話しているのではありません。これは文字通り自由の経験に関する話です。それはマインドの領分での幽閉からの自由であり、純粋さとフィーリングでの認識の領域に属しています。それは私達の胸の真ん中にある、ハートの中央拠点にて私達が知っている高次元のフィーリングにしても条件付けられていないのです。それは無条件のフィーリングでの認識であり、ボディ-マインドの構築に先立つものです。
ハート(心臓)の右側に絶対的な自由 - 低次であれ高次であれ、どんな次元の如何なる美をも遥かに超える美しさと息を飲むほどの純粋さに属するもの - への入り口(ポータル)があります。
この入り口に入るためには、マインドの周波数の流れに起因する痛みに耐えたり、持ち堪えることを最初に要求されます。その周波数はブーメランのように私達自身の電気的な脳に返ってくるのですが、低次であれ高次であれ、私達の想像の世界のチェンバー(部屋)にある有限の壁からはね返ってきたのです! これは私達が耐え抜き、観察しなければならない苦闘です・・・私達自身の真の本質でありホームである、この原初で手付かずの領域に入る前に!
私達は、この監獄の世界にあってさえも、しかも“上昇”することがなくても、この入り口を通ることができるのです。でも、それは“脱出”(解脱)方法であり、究極的には、私達が夢うつつになるどんな制限からも、粗大または微細、さらには因果的にも(訳注:粗大・微細・因果は、精神世界における三層界のこと)からも抜け出る根本的な方法です。
ええ、私達のボディ-マインドは疲れているかもしれませんね! ですが、私達はボディ-マインドですか? 私達が自ら望み、協力することによって支配者を喜ばせたいでしょうか? そんなことは私達は必要としませんし、今ならばなおさらです!
私達は彼らを責めることはできません、私達自身の制限を超えていくために私達の役に立とうとして彼らはここにいるのです――純然たる誇張によって。私達自身を、まさしくここで見出すために。この幻想にも関わらず、地球上での永劫に亘る人の生涯全てにおいて、そこに脱出(解脱)方法を見い出した無数の存在がいなかったのでしょうか?
私達がもっと詳しくゲームを理解しつつも、自己憐憫に付随する非難に今も賛同するとき、私達のスピリチュアルな筋肉は唐突に弱くなるのではありませんか?・・・私達が、解脱に関する荘厳で格式ある秘密を伴った偉大な精神的な伝統を窓から投げ捨てている間に。
新鮮味があって永遠と幸福を運ぶ風が、マインドの存在しないハート(心臓)の右側にある宇宙の穴から吹きつけ、花開いています。それは私達の真の自由に通じる開口部であり、源です――こうした風はいつでも、低位世界や高位世界の中での探索路を彷徨っている間に、私達が夢見る全ての誤った考えやイメージを吹き流す用意ができています。
目を覚ます際、私達が知っていたり想像するような世界はありません。そこは夢の終わりにある夢なのです。明瞭さはそこで全て消耗し尽くされます。世界という魔法の中に引き戻されることを許すのは前々からの習慣に過ぎません。けれども、かつて私達が存在していこの自由を知ることは、低次であれ高次であれ、どんなボディ-マインドの経験をしていようとも私達を自由にするのです。私達は思い出さなくてはなりませんし、忘れてはいけません。真実の愛が輝くその場所を。
沢山の愛を込めて、
ユート
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- Translation: CI
※翻訳修正:2013年2月27日
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TOTAL FREEDOM IN THE MIDST OF THIS!
******** 雑記 ***********
ところで、文中に「被害者意識」に関して言及している箇所がありますが、ここを読んでいて、まさにその通りだと感じました。
個人的にも、かつて思い当たる節があるのですが、これは世間の多くの人・場面(事の大小に関わらず)において当てはまることだと思います。ただし、それゆえに反感や反論も出やすいデリケートな部分であることも承知しています。
それでも、以前の記事(8月4日、UFO着陸説@オリンピック会場」について ※追記あり。)にも書いたように、全ての経験は、他の人との共同創造の場の中に植えた種から発芽し、成長し、実るものなので、誰も(自分自身でさえも)それを責めたり、非難することはできません。
このことに気がついて、相手によって自分自身を深く認識することができたということに感謝し、相手のポジティブな面を認め、過去のわだかまりを許すことができれば、その瞬間に世界観が変化し、美しい風景を見るように内的世界に光が舞います。
もっとも、そうした思いを一度抱いただけで全てが願ったり叶ったりの方向へ進むわけではなく、繰り返し練習するように慣れ親しんでいくことが大切です。そのうちに、少なくとも敵意は失せ、攻撃心や恨みや憎しみといった感情も鳴りを潜めていき、やがては、相手の幸せを願う気持ちや、思いやり、あるいは共に成長していこうと思えるようになっていきます。
場合によっては、ただ、そうした環境から離れることになったり、関係がなくなったりします。つまり、もう(学びの)縁が終わったという合図です。
たとえ世界全体を幻想や暗闇に引き込んだイルミナティの連中(僕はこういった表現の響きが好きではないですが)であろうと、金利の不正操作をして経済を混乱させた人々であろうと、爆弾や銃で愛する人を殺された憎き敵であろうと・・・・・許しがたい気持ちがあることは重々察しますが、この胸の痛みを乗り越えなくては、アセンションの第一条件をクリアするのは難しいのではないか・・・、確かに僕もそんな気がします。
時折、このブログで触れる「世界卦」の概念の一つに、年毎の遷移を読解する方法が幾つかあります。
ここで簡易的なものを一つ取り上げますので、皆さんの参考にしていただけたらと思います。
現在、2012年――東洋の干支表記では壬辰年ですが、年卦は天山遯九五。また、それを占星術の黄道十二宮に対応させると、さそり座の28度に当たります。(1度加えるサビアンだと29度)。去年が一つ前の27度で、来年は29度です。
サビアンシンボルを見てみると・・・
(https://contents.nifty.com/member/service/g-way/sabian360/sabian360/free/about.html)
239: 蠍座29度: An Indian squaw pleading to the chief for the lives of her children.
サビアンシンボル: 酋長に自分の子供たちの命ごいをするインディアンの女
テーマ: きっぱりとけじめをつける
これは、深い悲しみのようなことに対面することで、翻って愛の感情や、ハートを開く体験に結びつける、という度数です。
それぞれの人の経験や感情の様相は違っていても、 それを自分なりに受け止めたり、包容することができれば、そこから一段も二段も精神的にジャンプアップできる可能性が開けるという点では一緒です。大変に辛い時期になることもありますが、その分、スピリチュアル的な意味での成長を遂げることもできる、ということでは貴重な時期とも言えると思います。
そんな時期だからこそ、「逃避」(天山遯)の意味の取り方も重要になります。
象伝には、「天下に山あるは遯。君子もって小人を遠ざけ、悪(にく)まずして厳しくす」とあるように、君子としての各自において、何を遠ざけるのか、何を手放すのか、何を許すのか、そして、何をちゃんと保持するのか、矜持を保つべきことは何か、といったことを、よくよく自分自身に問う必要があるのではないか、そんな風に感じます。これが今年を象徴する卦の一つです。
来年2013年は、さそり29度(サビアンでは30度)であり、「ハロウィンのわるふざけ」。
240: 蠍座30度: The Halloween jester.
サビアンシンボル: ハロウィンのわるふざけ
テーマ: 自由を得るために役目を終えたものを手放す
“Trick or Treat?(お菓子くれないと、いたずらするよ?)”の時で、これまで自分が属してきた世界観、俗習、社会の在り方、対人関係などに対し、そこから脱することを前提に、あるいは既に意識の中では脱した上で、もうその関係から足を洗う(未練を断つ)ことを自他共に納得させるような言動を行う傾向があります。
脱退した組織の欠陥や不備を指摘するようなこともあれば(※)、単に自分自身にとって不要となった事柄を手放し身軽になって、新しいステージに向かいたいという気持ちの表れとなるかもしれません。いずれにしても、次のいて座(2014年以降の30年間)への転換点なので、29度で考慮した「けじめ」に従って、この30度で区切りをつけるということになるんだろうと思います。
(※ ただし、悪態をついて嫌われるようなことをするよりも、「離れた(抜けた)人間」としての視点で大局的に意見を述べたり総括するほうが肯定的です)
易だと雷天大壮の九四になり、進路を塞いでいた垣根を開く、あるいは突破していく時期ということで、冷静な判断(思慮分別)も大事ですが、ここでの勢いを削がないようにする必要もありそうです。
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