新年一発目の記事です。皆さん、今年も宜しくお願いします。
(はじめに書いておきますが、今日のは駄文です。自分自身のことしか書いてません)
西暦2000年から、もう10年も経ったんですねー。ホント早い。
思えば、その頃の僕は京都に住んでいて(大学が京都市だったので。でも早々に辞めた)、18~19の時に西日本を巡るヒッチハイクの旅をしたり、今は亡き地方のコンビニでバイトしたりしてました。
それから地元の愛知に帰ってきてからは、タイに10日間ほど旅行に行ったりもしました。
出発は仲間とでしたが、僕は単独行動が多かったのでバンコクのホテルでイマイチ分からない英語に苦労したり、トゥクトゥク(タクシー)の運ちゃんと値段交渉(手のひらに単語を書いたりしながら)して連れ回してもらったりしました。
そこで本場のムエタイの試合を観てきたのも懐かしい思い出です。曜日が合わなくてタイ舞踊が見られなかったのは残念だったなー。
今思うと、あの当時の英語力は酷いものでしたが、なんとか行動力で乗り切ったという感じでした。また、格式ばった英語ではなくて、東アジア独特の商業英語が使われていたおかげで、僕の日本人的な下手な英語でも理解してくれたんだと思います。
まあ、何かを買うにもおっかなびっくりでしたし、たぶんタクシー代とかボッタくられてたんじゃないかとか思うけど、それも含めていい経験でした。
今はあまり英語の学習ができてなくて、とても一人で海外に行ける自信はないけれど、いつかオーストラリア辺りに移住するのが夢なので、次か次の大運(占星術的には木星期くらい)には実現できるように自分を磨いていきたいと考えています。
それはそうと、実は今年から僕の大運が切り替わります(正確には昨年の12月から)。今までの10年に別れを告げて、新しい10年に入ったわけです。
正財運ですが、十二運は十干派で沐浴、五行派では病もしくは長生(流派によって違う)です。「四柱推命 白帯」的には逆運の僕は先に地支蔵干が来るので、前半5年間は劫財(養?←まだ研究中)ということになります。
日主(土:命式では火>土・木>水・金という感じ)が弱めの自分にとっては、財星(水)が巡るのは正直あまり良い運気ではないです。力量的にはこれからの時期、水(財)>火(印)>土(自)>木(官)>金(泄)となって、財が印を制する形。もっと現実を見ろ、という指示なのかもしれないし、良くも悪くも財(個別の事象は色々)を土克水で抑えようと躍起になるのかもしれません。
“魂の成長”のような抽象論を持ち込むならば、後の人生のためにそういう経験が必要という意味なのかも。
「白帯」による喜忌(加減)判定では、水行(財)を大分減らす方向で(コントロールに労力が必要そう)、
また火行(印)・土行(自)も少し減らす方向で(この辺が一般的な喜忌判定と異なっています)、
逆に木行(官)を少し増やし(ということは、仕事に気合を入れろと?)、
金行(泄)を大分増やすように(もっと自分を表現しろってことか?)すると中庸に向かうようです。
性格的に、というか生来的に、僕は財や泄(食傷)面に疎いです。関心が薄いというか、間抜けというか。
それは弱い日主よりも、さらにエネルギー的に低いからということなのか分かりませんが、自分としても弱いところだという自覚があります。
商売人気質はゼロに近く、回転財(金は天下の回りもの)みたいな考え方が身に付かない・・・。そもそも元命が正財なので、教科書的に言えば吝嗇(ケチ臭い)という悪い面が自分でも分かる。地支が墓庫(土性支)でなくても、出し惜しみする傾向はあると思う。ギャンブルとかできない性分。
まあでも、それは別にいいです。いや、ケチ臭さは直さなきゃマズイか。
とにかく、職さえあれば生きることはできる。(なきゃ死ぬけど。)
いまさらサバイバルはごめんですが、生活できさえすれば、とりあえずは文句なし。
それより個人的に重要懸案なのは、食傷としての自己アピール力が最弱だということ。
自分がしたことや作ったものなどを藪の中に置いてしまう。奇遇にも草を掻き分けて見つけてくれるのを待っているだけ。売り込みとか考えられない。
このブログにしてもHPにしても更新は月に何度か。あ、でも一度、易の解釈をしている時に頑張って毎日書いたなー。
目的があって何かに取り組んでいる時は、そういうこともできるのか。
金行(食傷)は全般的に喜神なので、いい面で自分をどんどん出していきたいです。
特にこれからの30~40歳までの間は金行が低減しているので、強まる土行を意識的に金行に流して自己表現し、それを財に結び付けていけたらいいなー、なんてことを考えています。
通常の喜忌の考え方だと、自星(比劫)運が弱い場合、それを強める運(印&自)を吉とするために、漏らして弱めてしまう泄(食傷)運は歓迎されないのですが、その時々の五行の状態によって対処は異なると思っています。ただ、食神か傷官かでは内容(干)が異なるので、その点は注意が必要ですけど。
僕にとっての食傷・財・官は「扱い慣れていない道具」のようなものなので、時期や方法を誤ると泥沼にはまってしまう危険性も秘めています。実際、僕はそれで失敗した経験もあるので、一つの教訓になってます。
ところで、調候的には僕は「冬月の土」の生まれなので、今書いたような喜忌や加減とはまた違ってきますが、その辺のことはちょっと上手く飲み込めてないというか、飲み込みはしたが消化できてない状態です。用いる条件が違うのか何なのか分かりませんが、適切に扱う方法論が見出せていません。
歌丸光四郎さんは著書の中で、「冬の土」の生まれが四時の吉凶全ての中で最良(「非常に幸運」)だと書かれてましたが、自分としてはそんな意識はほとんどないです。単に「冬の土」だから佳があるとか、恵まれていると考えるのは適当ではないと思います。やはり命式や行運によらざれば正しく読めないとするのが道理でしょうから。
原則論だけで固定的に捉えることは無理があるので、四時の吉凶を考える際も画一的に当てはめるという見方は通用しないのではないでしょうか。
話は変わりますが、最近、四柱推命による相性診断のソフト(VBA)を作ろうと思って少し取り組んでみたのですが、直ぐにどうしたものかと考えあぐねてしまいました。相性と言っても、僕は男女間の相性を含め「つながり」というものに酷く疎く、作ろうにも実感が伴わないため、ハッキリ言って全然ダメだと気がつきました。
特に、この10年は孤独を信条(!?)として生きてきたせいか、人と人の関係性を云々できるほどの人間性があるかどうかも怪しいです。生活費のために仕事をする時は外に出るけど、後は研究や自分のしたいことをするために引きこもっているような感じだったので、付き合いとかも面倒で相当数断ってきたクチですし(汗)
傍目に見たら「人生に冷めている奴」または「付き合ってても楽しくない奴」だろうなって思います。さらに、そういうことを特に気に掛けることもなかったので、だからこそ相性判断みたいなものを作ろうとすると壮絶な違和感を覚えるのかもしれません。
一応、五行の力量に関しては命式・大運・年運などを個別に出せるので、それらを二人の間で融合させたり、本人と相手との間の互換性がどうなっているのかを機械的に示すことはできるのですが、ただそれだけです。
…味がない。経験が乏しくて、人間味が足りない。感情が湧かず、客観的な事実でしか見れていない。
まあ、エネルギーの流れを知るだけでいい、という場合には役に立つかもしれないけれど、そんなのにどれほどの意味があるのかと思ったために中断してしまいました。
僕が自作ソフトに解釈文を投入しないのは、主に「解釈は各自ですべし」という大前提があるからですが、個人的な理由を付け加えるならば、そこには感情とか魂が欠落しているからです。生きた文じゃない。
もちろん、易の場合も含めて自分で経験(または見聞)したことを踏まえて書くようにしていますが、どこか味気なさをいつも感じています。温かみがないというか、距離を置いているというか。一言で言うと「自分がいない」とか「主観性が見えない」とでも言ったらいいのか。
昔からよく、「(話に)主語がない」と言われていたことを思い出します。誰が、何がという、英語では最前線に来るべき重要な情報が曖昧になりがちで、特に自分自身を置き去りにしてしまっている印象を周囲に与えているみたい。
よく一人称で語られる本がありますが、そういうのを読むのが辛い。というよりも、読めない。「私が」とか「俺が」とか、そういう視点で物事と関わったり、人と接したりすることができません。たぶん、そうしようにも性格的に無理がある気がします。
以前、「草食系どころか、霞み食ってる系だよね」と揶揄されたことがありますが、それはたぶん間違ってないです。
・・・と、なんだか自分のダメだしばかり書いてしまいましたが、そういう弱いところも踏まえて(隠さずに認めることを出発点に)、これからの10年を生きていけたらいいなーと思います。こんな文章を最後まで読んでくださった方、――中にはネガティブな文章に反感やイライラを覚えた方もいるかもしれませんが、とにかくありがとうございました。
個人的な都合もあって、今年の夏や秋までブログやHPの更新を続けられるか分からないのですが、やれることはやってしまえるように努めますので、どうぞ温かく見守って頂きたいと願っています。
ではでは、本年度も宜しくお願いいたします。
C.I.
期待に応えられるかどうか分かりませんが、なるべく時間を当てて更新させていきたいと思っています。
ところで、自己称という言い方は初めて聞きました。こうした話し方が苦手というのは、単なる僕の生来的な一面であって、(承知されているとは思いますが)別に易を学んでいるから、というわけではありません。
少しばかり占いや易をかじっているとはいえ、それで性格まで改善されるほど、未だ僕は具足できていないですし。それは詰まる所、そうした哲学にせよ実用面にせよ、思うほど上手に生かせていないという証拠でもあります。
そして、だからこそ「自分の文章には力がない」と自分自身で感じてしまうんだと思います。
僕は今まで“天空の城ラピュタ”のように、宙に浮いたようなところで易や占いを捉えていた面が強く、そのために現実の社会や私生活とのギャップを痛烈に感じたりしていました。
この頃は、その格差(…遊離感とか隔絶というべきか)を埋め合わせるためにグラウンディングする必要性を覚えています。結局、これまでの僕は、ただ闇雲に放電しているだけの非生産的な(時に厄介な)状態だったような気もします。
新年に当たって書いた今回の記事は、そうした自分自身を回顧しての内容なので、あまり他の方に有益なものではなくて、書いた後に心苦さを感じていました。
けれど、こうしてコメントを頂けて、もう一度、自分を振り返ることができたのは良かったです。ありがとうございました。
寒い日が続きますね。どうぞご自愛下さい。
自己称に違和感ですか・・・。
前に勤めていた会社の社長さんが
徹底して自己称を使わない(嫌っていた)方でした。そのため、ずっと自己称を使うことができず、そのことに違和感があり(それだけではないですが)、転職しました。
いまだに自己称を使うのには一苦労で、なかなかスムースに口から出てきません。
ただ、そのことは良い方向に捉えています。
易の知識などと合わせると他の方々とは違った
視点を持つことができるむしろ良い点かもしれません。
しかし、人間も生身の体をもった動物である以上、エゴから逃れることは不可能だと思っています。(前の会社で感じていた違和感)
とは言ってもその中で少し客観的な視点を持つために自己称の排除は、役に立つ、というのが最近思うことです。
今年もよろしくお願いいたします。