With the I Ching

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離(火)

2009-09-23 20:22:54 | 八卦の千変万化

・離(火)

陰が上下の陽の中に挟まれている卦です。
下を離れ上に付いたり、上を離れ下に付いたり・・・と、まるでN極とS極とを併せ持つ磁石みたいな卦です。

NとN、SとSという同極ではくっ付かないように、離は二律背反の卦です。内に矛盾を秘めている。
正象の火も同様で、火が存在するには燃えなくてはならず、燃えるためには燃えるものに取り付かなくてはなりません。(根本的には、燃焼するための酸素が必要不可欠ですけども)

中が陰で表面が陽ということで、外側は明るいが内は暗い。
たとえば火も、小学校の理科で習うように、蝋燭の芯に近い部分よりも火の先端のほうが明るくて高温です。
現代的には、離の光は懐中電灯や舞台ライトのようなものです。暗闇を照らす一条の光。
それによって見えなかったものの存在が明らかとなる。こういった概念を利用して離に対するイメージを広げていくことになります。

組み合わさった卦にもよりますが、たとえば見栄えはいいが内実が伴わない、家計は火の車、プライドが高い、嫉妬深い、流行好き(主体性の無さ)、一方、いい意味では、表立ったことや前面に出ることに長けている、パッと見に知的な印象、見透かしている(先見性)、願望に対するイメージ力・・・などが挙げられます。

もう少し具体的に考えてみましょう。

例えば、脚を交互に差し込むようなモデル歩きは、スタイリッシュさや美しさを強調するためのものであって、あくまでステージ上のものです。仮に、その歩き方を普段も行っていたとしたら、程なくして腰や背中をはじめ、各部の筋肉や関節を傷めてしまうでしょう。
まあ、見たらすぐに分かるようなことですが、魅せるための歩きと、進むための歩きは異なります。

それに関連して、ハイヒールのような爪先立ちになる靴を何時間も履き続けていると、かなり疲れるんじゃないかと思います。見た目は綺麗かもしれませんが、その実、つま先が変形して外反母趾になってしてしまったり、むくみに悩まされたりと、結構大変みたいですし。

他にも例えば、「テレビは部屋を明るくして、(近づき過ぎないように)離れてみてね」という決まり文句が子供番組の冒頭に必ず出てきます。
電磁波の影響や視力の低下を危惧してのことですが、これも離卦の性質を端的に表したものだと思います。

要するに、「バラは綺麗だけれど、近づきすぎると棘があって危ないよ」というのと同じで、遠目で見たら美しいものも、近くで見るとグロテスクだったりする。
ミュージカルなどの舞台メイクを見たことがあるでしょうか? 間近で見ると、非常に濃くて一瞬退いてしまう程です。
しかし、観客席からメイクが見えるようにするためには、それくらい濃く塗らないとダメだそうです。

対人関係でも同じで、浅い関係の内は互いに柔らかく表面的に接するけれど、それが親密になればなるほど辛辣さや厳しさも出てくる。
特に先生と生徒、師と弟子、上司と部下という上下関係では顕著に現れやすいと思います。

ちなみに、今あなたが見ているディスプレイ、明るさはどのくらいでしょうか?
試しに、設定を変えて明るくしたり暗くしたりと、その変化を確認してみてください。

まあ、ちょっと見えづらくなる程度ならば、それほど支障はないですし、むしろ状況に応じて使い分けられますが、完全な真っ暗闇(火種が消えてしまって燃え尽きた状態)では何も見ることはできず、同様に、明るさが強すぎて眼前が真っ白になってしまっても何も見えません。

ただ真っ白のケースは、エネルギーが通常の可視状態よりも高まったために外部からは見えなくなってしまった、ということであり、存在自体が消えてなくなってしまったわけではありません。物体の消失現象がイコール存在の消失ではないのです。
どこかに存在してはいるが、一般の人間の波動レベルとは比較にならないくらい高まっているために「同調できずに見えない」だけなのです。

喩えとしては――レベルが異なるので適切ではないのですが、仮に状態をイメージしてもらうために言うならば――昆虫や魚などが天敵から身を守るために、周りの環境(木や葉や土や岩など)に擬態して姿を見えなくするようなものです。
(『攻殻機動隊』に出てくる“光学迷彩”のような感じと言ってもいいかも知れません。でも、この喩えが通じる人は少ないかも)

私達人間が光の色(波長の違い)を視認できる範囲を「可視領域」と言います。
一般に虹色と呼ばれるものがそれで、白と黒を両側にして、茶・赤・橙・黄・緑・青・紫といった色を見ることができます。もちろん、原色だけでなく中間色や混合色――水色やピンクや黄緑といったパステルカラーもありますし、もっと感性が研ぎ澄まされた人ならば、より微細な色の違いをも認識できるようになります。

例えば、優れたインテリア・コーディネーターやカラー・コーディネーター(セラピー)の方、それから建築家の方などです。常日頃から色に関する仕事をしている人は、微妙な色(光の波長)の違いや組み合わせが、人の心理に与える影響をよく知っています。

そして、その視覚作用が外側にではなく、内側に向けられ、そうした能力を高める訓練を積んだ人の場合、人体が発する光、いわゆるオーラを見ることができます。人体を取り巻く神秘的なエネルギー。
東洋では、“気”で知られているものです。

オーラや気は、感情(意識)や体調の変化に呼応して色が変化したり、その明度や強さ、濃淡、輝き方、感じ方は人によって違っていますが、誰しもが持っています。
“見えない”からといって、“ない”わけではないのです。

人体を巡る気の流れ、全体的なオーラの状態、そして自分と他の人との間で交換されるエネルギーの流れ。
大概の場合、見えていないにしても、会話をしている状態は相手とエネルギーを交換し合っています。
それが一対一の場合もあれば、教室で弁を振るう先生のように一対多のケースで流れていることもあります。

この時、流れる気の中には、フィーリングによって読み取り可能な情報が内在しているように感じるので、それが武道でいう“気配”や“殺気”、あるいは“間合い”や“合気”といったものとも関連しているのではないかと思っています。

最近の研究では、気は遠赤外線に含まれる振幅変調波(ラジオ電波やリモコンやケータイなどの赤外線送信)に似た、“自然界にない特殊な周波数の電磁波”ではないか、という説もあります。
電波の中に情報が内在しているという観点からすれば、それは気エネルギーに内在するであろう情報と似ている気がします。

よく「感情を込める」という表現をしますが、感情の変化によって気の状態が変化するというのは、気の中に情動のデータが内在するからだと考えることができるわけです。

例えば、恐怖を感じている時と喜びを感じている時とでは精神の状態が真逆です。
そして、気の状態も明らかに違う。
喜んだり笑ったりしている時には、浮き上がるような軽くなるような感覚になりますが、恐れを感じている時は沈降して粘性化する感覚になる。

さらに、そうした感情や意思を込めた気を水に送り込むと、その水の性質が変化するという研究報告も出ています。
味が甘みを増したり、美味しくなったり、あるいは分子など成分の構造に変化が出ているのでは? という具合にです。

こうした気の存在は、適切な訓練を続けることによって、比較的容易に感じることも見ることもできるようになります。
例えば、「内気功」や「外気功」といった修練がそうですし、芸術的絵画や自然が織りなす美を鑑賞することでも養われます。

先の兌のところで音叉の話をしましたが、覚えているでしょうか?
エネルギーの波動は、その振動数の高さによって質の良さが決まりますから、
真善美を感じるものなどを見たり聴いたりして、その存在が放つ優れた波動に心を共振させるようにするわけです。

一番効果的な方法は、やはり自然の美しさに直に触れることです。
森林浴をしながらの気功や瞑想は、私の好きなものの一つですが、やはり効果てきめんです。
精神がリフレッシュされるだけでなく、体全体の気の流れを整えたり、充電することができるからです。

他にも、朝日や夕日が雲と一緒になって醸し出す美しさは、その瞬間だけ、今だけのものです。
二度と同じ光景は見られません。その貴重さを心から味わうことも感受性を高めることに役立ちます。
それに、日の出後の数時間(後天八卦では巽宮:辰巳)での日光浴は、健康増進に効果的だという話もあります。
(※直に太陽を見続けることは、視神経を傷つける恐れがありますので、ただ日の光に当たりながらの散歩が良いと思います。)

また、海や空の抜けるような透明な青を眺めることは、気持ちを爽やかにしてくれますし、心地よい潮騒の音を聴きながら、ゆったりとした時間を過ごすのもいいものです。

特に、風水的に優れた地形の場所や聖地と呼ばれるところでは、
上昇気流のエネルギーが出ていることが多く、また感覚的に明るい空間となっています。
その場に立つと、心がポジティブになり、気持ちが前向きなるのが分かります。

そうした場を利用すれば、もっと効果的にトレーニングを進めることができますが、残念なことに、人為的な森林伐採や心無い環境破壊によって、刻々と失われている傾向にあります。
人々が、もっと自然環境の重要性を認識すれば、そういうことの愚かしさを痛感すると思うのですが・・・

人工的なものの周辺は、概して波動がキザギザしています。
特に電波塔などの電波を発する物の近くでは、人体に有害な影響があることが報告されています。
これは、携帯電話にしてもパソコンにしてもそういう話がありますから、ケータイを耳にくっつけたまま長時間使い続けたり、パソコンのディスプレイや本体に頭を近づけすぎたりすることは止めましょう。気分が悪くなりやすいです。

このことは、離と正対する坎の状態です。
人体に悪影響を与えやすい電磁波もそうですが、自分自身のネガティブな想念や、他の人々の悪意も同様です。
聖なる場所がある一方で、そこにいるだけで恐怖や不安を覚えるような場所もあるでしょう。墓場や心霊スポットや磁場が狂った場所とか。
人々の思念は、良くも悪くも積もり積もって残留していきますから、場所によって良否が二極化してくるわけです。

余談ですが、熱帯魚を飼っていた時に、「背景が白い壁だったり、底が白石ばかりだと魚が落ち着かなくなる」と本で読んだことがあります。それで、黒石や茶色い石が適度に混ざっているものを買ったり、水槽の後ろ側に熱帯チックなシートを張ったりしました。特に深緑と黒のコントラストが一般的だったと思いますが、そのほうが落ち着くんでしょうね。

人の心も似たり寄ったりで、壁も天井も真っ白な部屋に長時間いると、一時はクールに思えますが、その内、気分が落ち着かずイライラしてくるそうですし、逆に、ずっと暗闇の中で過ごしていれば、自然と暗い性格になったり、病気がちになったりするのも頷けます。

もっとも、それも感覚にとらわれているうちのことなので、そうした外的条件に心を乱されない訓練を積んでいる人には、一般人のデータとは全く違った結果が出てくることは充分に予想できます。

私たちは、人間の能力の神秘性や不思議さについて、その僅かな面を知っているに過ぎません。
特に科学的に解明されていることは微小と言ってもいい。科学は精神の領域の何割かを解き明かしているだけで、謎のほうが遥かに多いのです。
“人間には計り知れない可能性がある”ということに、もっと目覚める必要があると思います。

先天八卦の原理では、離は月が満ちていく過程全般を象徴しています。
あたかもエレベーターやエスカレーターが上昇していくように、光がその量を増していく時期が離です。
光が増せば、見えなかったものが見えてくる。意味不明だった事柄に理解の光が差し込んでくる。神秘の美のエネルギーを見る能力。
科学的新発見、秘密の開示、隠し事の露見や暴露、熱誠、形や容姿への執着、美的感性や芸術へ関心といった傾向が出てきます。

離の光は、一本の蝋燭の灯りに象徴されるものですので、乾のように部屋全体を照らし出すほどの光量はありません。ですが、舞台上の役者に向けられたスポットライトのように、ある一点に対する光明が周囲とのコントラストを浮き彫りにし、さらに魅力を引き立てます。
そのような“良く見せる”という意味では効率的に働く卦ですが、反面、成果主義や目的完遂型に陥りやすいという点で周囲からの反感を買う恐れもあります。

人物では、「美しさや芸術性を求める人」、「知的興奮を欲する人」、「賢明そうでスタイルの良い女性(才女)」、「成果主義の人」、「外面や体裁に気を使いすぎる人」、などを象徴することになります。

占星術的な観点からすると、離はドラゴンズヘッド(ノースノード)、もしくは天王星の象意に近い気がします。
エニアグラム対応ではType3になると思います。



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