With the I Ching

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高島嘉右衛門(呑象)さん

2010-01-31 03:11:18 | 占い全般のコラム

易学界の中では知らない人はいないというほどの稀代の人物、故・高島嘉右衛門さん。

・・・と言いつつも、恥ずかしながら僕は今までその名前を知っているだけでした。
つい先日、高島さんの人生の軌跡をダイジェスト版で綴ったサイトを見つけたため、ようやくその人となりが分かってきました。

以下のサイト&ブログです。

1. 「タオの風水巷談」の中の「実録・高島嘉右衛門伝」シリーズ
2. 「ミスターフォトンの浮世鍋」の中の「占い」カテゴリーにある「易聖 「高島嘉右衛門」物語」シリーズ
3. 「易聖・高島呑象先生


この方、凄惨な獄中生活の中で易をものにしたそうなんですが、それって周易を作った文王(姫昌)と似てる。。。
牢に易書は必須なのか(笑)

それはともかく、嘉右衛門さんの軌跡を読み始めて間もない頃に、なぜか直感的に出生時刻が分かる気がしたので、少し調査。でも、ネットの検索では出生時刻までは判明せず、仕方なく、自分で探査してみることに。

データ不足も甚だしかったのですが、東洋占術+西洋占星術で見た感じから「辰刻(7時12分頃)」と想定。
当てずっぽうな感は否めませんが、参考までに想定した日時でホロスコープや四柱推命などの命式を出してみたいと思います。

まず、基本となるデータを整理します。(参考引用:Wikipedia)

◎高島 嘉右衛門(たかしま かえもん)
(幼名は清三郎。後に嘉衛門(嘉兵衛)、嘉右衛門に改名。号は呑象(どんしょう))

出生地:江戸三十堀間町(現東京都中央区銀座:緯度 35度40分, 経度 139度46分)に第六子として生まれる。兄は皆夭折したため嫡子となる。

生年月日:天保3年旧(閏)11月3日(1832年12月24日、月曜日) - 大正3年(1914年)10月16日

出生時刻(C.I.による仮想):AM7:12頃?
(均時差0分、時差19分、真太陽時07:31分頃) → 辰刻?

四柱八字:壬辰年壬子月乙亥日庚辰時(※時は仮定)

時間起卦での命卦:火地晋上爻

27宿(ナクシュトラ):斗宿(ウッタラ・アーシャダー:インド占星術でのアヤナムシャ考慮)

以下に画像を置いていきますので、各自、得意な占術で読解してみてください。


<西洋占星術のホロスコープ>

クリックで拡大します。他の画像も同様です。

(提供元サイト様「MyAstroChartR」)

太陽と月という、個人の意思と感情を投影する天体がカーディナル・サインにあり、諸惑星の数も最多です。活動・不動・柔軟の割合が5・3・2。

一般的に言って、起業する、創立する、新しく作り出すというような活動には積極的に関わっても、後の維持や転換(発展)にはそれほど関与しなくなるパターンの構図です。

太陽は水星と、月は海王星とコンジャクション。それらが同じやぎ座の中にあります。
神秘的な感性や天啓のような直感を、実際的な言葉に置き換えて語ることのできる雰囲気が読み取れます。言葉を純粋な文章としてではなく、イメージやフィーリングとして映像的に捉える傾向が出てくる構図と言えるかもしれません。

右脳の働きを上手に左脳に伝えるという、全脳的な働かせ方ができそうな印象。しかも同じ星座内であるため、ストレートに直結しています。ただその分、周囲の人間からは思考回路が異なる(行動原理が読み取りづらい)と思われる可能性が高かったのではないかと思います。

金星期(16~24歳)の頃に、安政の大地震(1855年11月11日:嘉右衛門22歳の時)が起きています。この金星と同じみずがめ座に天王星もあります。
時刻調整の際に意図したわけではなかったのですが、天王星が2ハウスのカスプに来てます。財についての急激で突発的な展開が起きやすい。実際、安政の大地震が起きる前に、神がかり的な易占で大規模な火災が起きることを予知し、木材を買占め。価格高騰の機に乗じて多額の利を得るも、その後の台風による洪水で、それ以上の損失。

この時刻で概ね正しいと仮定すれば、規模の大小はあるにせよ、人生の中でそうしたことが何度かあったのではないかと推察されます。

この後、27歳(1860年)の時に投獄され、足掛け6年もの苦難の日々が続きます。
土星は9ハウス・おとめ座のカスプ近くにあり、9ハウスの支配星は12ハウス・いて座にある水星。また、水星を引き連れている太陽は8ハウスの支配星です。さらに、12ハウスの支配星であるうお座の木星は土星とオポジション。

太陽の年齢域(26~35歳)の時期に、外国人相手に貨幣の交換率の差分を利用した違法な儲け方(現在の外国為替法違反)によって御縄になったのも頷ける配置です。(ただし、少し出来過ぎかもしれません。図ってレクティファイしたものには思い込みと間違いが伴いやすい。)

4ハウス・おうし座の火星期(35~45歳)に入る頃には条件付ながらも放免され、懐古の地である横浜を拠点に新たに事業展開をはじめます。この時、名を「嘉右衛門」と改めています。火星はキロン(高度な技術と治癒)とコンジャクション、木星とセキスタイル、月とトラインなど活動を支援する配置が目立ち有用そうです。この頃から第二の人生が始まったと見ていいでしょう。

火星期が終わって木星期(45~55歳)に入る頃になると、一時隠居を志しますが、この木星は土星と向かい合わせになっており、休もうと思っても対外的な働きかけがあったり、自身の事業(社会奉仕)への想いから、思うほどノンビリとはできない状態。ただ、どちらも社会的な役割に関わる星ですので、忙しい中にも充実感はあったのではないかと思います。

そうして土星期(56~70歳頃)までを多忙に過ごした後、天王星期(84歳頃まで)に入って75歳辺りに足腰を悪くしてしまい、以降、天王星の年齢期の間はベッドで安静にしながら、来客の方達に易を説くなどして応じられていたそうです。


<四柱推命>




生時不明な方ですから、とりあえず三柱で考えた場合、天干には壬と乙のみ。つまり水と木。
地支も、辰(土・水・木)、子(水)、亥(水・木)と全てに水の根があり、木の根も二つ。子月の本気なので水旺。

時柱に何が来るかで変動はありますが、この日のどの刻限であっても印(水)が過剰傾向になります。
日主(木)もそこそこ強いのですが、印の圧倒的な強さには及ばない。おそらく従印格でよいかと。

立運は4歳3ヶ月。参考になりそうなので、少し上記サイトより引用させてもらいます。

「この嘉兵衛の元に生まれた、幼名清三郎、これが後の高島嘉右衛門である。この子供が後々まで名を残す稀代の易聖になろうとは、生まれた家柄血統からしても、もちろん誰にも予測はつかない。

この清三郎が占術の世界に縁を持ったのは、皮肉ともいえるきっかけだった。そもそも清三郎は非常な虚弱体質で、四歳の頃まで一人で歩くこともできないほどひ弱な子供であった。
しかしそこが面白いところ。何の心配もなくスクスクと健康に育つ子は、親も楽な代わりに特別な配慮もする必要がない。清三郎を心配した嘉兵衛夫婦は、普通ではなかなかしないことをした。
清三郎の生後一年半に当たる天保五年五月、かの稀有の観相家・水野南北を招いて清三郎の将来を占って貰ったのである。」(引用:高島嘉右衛門伝、第一幕・積善の家に嘉右衛門あり


※大運の算出法に関しては人や流派によって様々ですが、僕は伝統的な方法で良いと思っています。
つまり、一ヶ月(30日)を10年と見立て、それを男女・陰陽干&節入りからの差分(日時または太陽黄経)によって考えるもの。計算式は以下の通りです。

【男女・陰陽干&節入りからの差分/30度(日)×10(年)】

これを簡略化して、単に【男女・陰陽干&節入りからの差分/3】としても同じ。
でも、元の式を理解しておくことが重要だと思う。
(知った風な口ぶりで「三元で割る」なんて言っていると、墓穴を掘る可能性あり)

また、別の書き方をすれば、次のようにも解けます。

【順行運(男性陽干、女性陰干)の立運=10-(節入り後の経過度数(日時)/30)×10】
【逆行運(男性陰干、女性陽干)の立運=(節入り後の経過度数(日時)/30)×10】

計算結果は変わらないので、原理を理解した上でなら、どの計算法によってもいいと思います。


話を戻します。

気質的には、どの時刻であっても「印+日主(日干)」方式で90%前後になります。過旺(極旺)の世界の住人です。(UPした画像には「蔵干も力量計算に含め」ていますが、この辰刻で天干のみを命式内の五行とする場合は93%になる)
ただ、これは印を含めた状態なので、単純に日主の五行のみで見ると身弱や中弱の人生ということになるわけですが。

五行の力量変化グラフを見ると、14~34歳までの期間は木行(=日主の五行)が印(=水行)に肉薄しています。
本来の命式バランスからすると木よりも水の方が圧倒的に多いので、この関係が崩れてしまう初年期はコントロールが取り辛く、どこか行き過ぎたことをしがちだったのではないかと思います。

ちなみに、栄枯盛衰グラフ(まだ発展途上ではありますが、生年月日のみでも初歩的な読解は可能)を見ると、明暗と運気が相反した格好になっています。明暗はタイムスパンの異なる通変同士の組み合わせ、運気は十二運によるものです。ちなみに、僕は普段、命式と行運は同生同死(五行)方式で見ています。(十干のエナジーを見る時は十干方式を使う)

第三運(24~34歳)までの十二運は最高潮を極めるほどで活動過多(はち切れそう)な感じですが、人生の明暗的には暗に傾いています。
25~31歳までの比肩同士の組み合わせをどう見るかは個々で異なりますが、嘉右衛門さんの場合、元来が過旺ですから、セオリー的には自分(比)が強くなり過ぎるのはかえってマイナスとみます。

第四運(34~44歳)になると明暗と運気が逆転していきます。
内心的な落ち着きが生まれてくるのと対照的に、社会の表舞台(明)を突き進むことに。

その後、占星術のところでも書きましたが、45歳辺りで隠退を決意するも、時代の流れが彼を放っておかず、当時の名だたる人物との関係やら事業の取りまとめやらで忙しく過ごした模様。しかし、その一方で身体にかかる負荷は高かったんじゃないかと思います。

そして、栄枯盛衰グラフが急激に明から暗の方向に落下した75歳頃から足腰を悪くされたようで、以後、死期を迎える9年間は寝たきり生活だったそうです。その様子は先に紹介した「ミスターフォトンの浮世鍋」の「易聖 「高島嘉右衛門」物語 ⑨」に書かれています。引用します。

「明治39年に足腰を悪くして以未、嘉右衛門は9年間、寝たままの生活を続けた。有力者や弟子・門人の訪問はひきもきらなかったが、嘉右衛門は彼らに易を説きつづけて止むことがなかった。

そして大正3年ーーー夏の暑いさかりの一日、嘉右衛門は当時日本一の観相家といわれた桜井大路の訪問を受けた。よもやまの話から、話題は嘉右衛門自身の死期に移った。嘉右街門は桜井に向かい、死期をいかに読むかと問うた。はじめは口を濁した桜井だったが、天下の易聖に「正直におっしゃるよう」と促されると、もはやあいまいな返答はできず、やむなく、「あと3か月の御寿命と鑑定いたします」と返答した 「よきかな一言や」嘉右衛門はほほえみながら桜井をほめ、手文庫から自らの位牌を取りだした。そこには「大正二年十月十七日没享年八十三歳」という文字が、嘉右衛門自身の手で記されていた。

そしてまさしくその年、その日、嘉右衛門は波欄に富んだ数奇な一生を終え、従容として易神のもとへと旅立ったのである。」(引用:「易聖 「高島嘉右衛門」物語 ⑨」)


なんでもベッドの上の天井に64卦を配した紙を張っていたのだとか。
それを使って、学校の先生みたいに長い棒のようなもので示しながら、お話をされていたのかなと想像しています。

追記:
もう一つ死期の問答に関するブログを見つけたので紹介しておきます。

明治の易聖:人間の潜在能力とシンクロニシティの秘密


<紫微斗数&大六壬>

出生時刻が不明ということで出すのはやめようかと考えましたが、とりあえず辰刻版。
当て外れの時刻の可能性もありますので、特に解説は入れません。




紫微斗数の流年&流月は、亡くなられた年月を入れました。
年齢については満年齢方式で作ってあるので、“その年齢になる年”という見方をしてください。


<数秘術>



数秘術は原則として出生時の名前を基準とするため、高島さんの幼名である清三郎(せいさぶろう)を用いました。

若い頃、父の名を襲名して嘉衛門(二代目嘉兵衛)となり、さらに、苦い獄中生活から釈放された1865年に自ら嘉右衛門と改名。もちろん、易聖としての高島呑象という号(ニックネーム)もあるわけで、それぞれの時期に意味が生まれているんだろうと思います。

日本人の場合、ローマ字表記をどうするか、という問題点があるのですが、僕はキャロル・アドリエンヌさんの意見に倣って「ヘボン式ローマ字」で見るようにしています。これは一般にパスポートなどの表記に使われるものです。でも、人によってはヘボン式によらないで別の表記法を使うケースもありますので、比較して考えてみると良いと思います。

例えば「せいさぶろう」の場合では「seisaburo」と綴るのですが、ヘボン式は“可もなく不可もなく(標準的)”という感じなので、実際には日本語読み的に「seisaburou」とすることも、はたまた「seisaburow」や「seisaburoh」(?)としても良いのかもしれません。とりあえず、その時の自分を説明できる表記法を採用してみる。ニックネームや芸名などで有名であっても、出生時の名前が糸を引いていると思うのならば、そちらで読むべきですし、逆ならば、今使っている名前の影響力を調べる必要があるでしょう。

元々、英語表記でない民族なので統一性がないのは無理もないですし。それに、日本には日本の姓名判断があるくらいなので、どうしても表記法に迷うようなら、あえて数秘術で名前を見なくてもいいとも言えます。

ただ、アルファベットの一つ一つには数字が割り当てられているので、その出方や多寡を見ることは意義があると思っています。

例えば、嘉右衛門(清三郎)さんの場合は、ネームチャートでの1が突出しています。1は物事をスタート(創生)させる力を意味しますから、ガス燈の設置や学校の設立など、起業する才能に長けていたことが読み取れます。しかし、その性質が強すぎて、他の数字とのバランスが崩れてしまっているので、前述した占星術の「活動・不動・柔軟」と同じく、尻つんぼになりがちな面はあったのかも知れません。

同様に、“気質分布”を見ても「創始:改善:完成=10:7:1」と物事を最後まで関わって見届ける、という性質は乏しいことが分かります。巨額を投じて創立した「高島学校」を3年後には横浜市に寄贈したりしたのも、こうした気質の影響と見れなくもないです。総合的に見て、典型的なパイオニア人間。

また、7だけが欠落していますね。この性質を補完しようと過剰反応したり、ここが焦点となって特異な能力を持つことがあるタイプです。

7という数字は、精神的な探求や物事の裏側を直感する力、一見無関係に思える現象の共通性や繋がりを発見する資質、内的な反応を外部へ反射させる能力などを表わします。高島さんの場合、易によって神意を得る才能として補完され、またそれが後天的な努力によって伸張された結果、「易聖」と呼び習わされるほどの高みにまで飛翔していった、ということなのか。

(ただ、長い名前の人やバランスよく数字が分散する人の場合、全部のマスが埋まることもあるので、この部分だけで判断することは短絡的とは言えます。誕生チャートも含め、総合的に解読することの方が大切だと思います。)


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さて。

出生時刻不明なのに、あれこれ書いてきて、本当に良かったのかどうか、妥当だったのかどうか・・・
数秘術のように生年月日で読めるものならばまだしも、さすがに占星術の読解は無理があったかもしれません。

高島嘉右衛門さんは、経歴を読む限り人生の起伏が激しく、痛烈な印象を受ける方です。
その人となりに少しでも近づけられたら、と思ったのですが、やっぱり出生時間を考えるというのは難しいですね。

なにはともあれ、伝記を読んでいると、「かくもスゴイ人が近代に生きていたんだ」と感慨深くなりました。
それにしても、明治維新に関わって一つの時代を駆け抜けた人達は、本当に自信に満ちているというか、“生きる力”が漲っていたんだなーという感じで憧れます。

当時の人達の気迫の10分の1でもあやかれたら、どんなに勇気が湧いてくるだろう・・・なんて、つい考えてしまいます



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