With the I Ching

易経や四柱推命、暦、占星術などの運命学の記事がメインです。

Basic Data Ver.2.2

2010-01-20 21:56:42 | 占い全般のコラム

ようやく「自分自身のデフラグ(最適化)」が済みそうです。
といっても、これは”易”に対する内的なデフラグなので、それ以外の面はまだまだですけど。

この過程で、公開中の易とサビアンの関係性 Basic Data Ver.2.1が大きく間違っていたことに気がつきました。(さらに、結果的にそれ以前のVer.2.0のほうが、よほどマシだったということにも)

そこで、もう一度、全体を再構成するために、自分のデータファイルと、ネットで散見する実占例を参考に見直してみること数日。何日かそんな作業をしていたおかげで、どことなく易に集中していた時の感覚が復活してきた模様です^^;

で、その状態を失わないようにデータに当たることを心がけている内に、なんとかBasic Data Ver.2.2としてUpすることができました。2.2ということで、2+2=4としての基礎・基盤になっていたらいいんですが。


思えば、この易とサビアンの対応表は、前回の四柱推命の大運に入った20歳頃から研究し始めていて、足掛け10年です。
概ね完成形だと思っていますが、完璧ではないかもしれません。まだ、パズルのピースが噛み合っていないのであれば、今後も詰めていきます。

それはそうと、僕はこの分野の研究者との交流がないので、今現在、どのくらい進展しているのか全く分かりません。そもそも、易やサビアンの研究者の中に、両者を結び付けようとしている人がどの程度いるのか把握できてないですし。(海外サイトでは一つ見かけたけど。研究者の方、よければ一緒に研鑽しましょう。連絡待ってます)

ひょっとしたら、僕が知らないだけで自分のしてきたことは、すでにもうどこかの誰かが成し遂げてしまっていて、後発だったりするのかもしれません。これだけ頑張ってきて結果的に「後出しジャンケン」だったらショックだなー。でも、それならそれで仕方ないので、その場合は自分は引っ込んで素直に賞賛したいと思います。


ところで、最近は大運の変わり目の影響か、自分自身の基本的な在り方(姿勢)について考えることが多いです。そんなわけで、今日も主観的な感じの内容です。最後まで読んでも、面白いところはないかも!? です。


僕にとっての運命学は、その根底に流れる本質的な法則と、そこに込められた意味の探求です。数多ある学問と一緒です。また、「理屈は分からないけれど、実用できればそれでいい」とは考えられないタイプです
そんなわけで、狭義的に解される「占い」というカテゴリーに放り込んで欲しくないのだけれど、現状はエンターテイメントの一種としてしか思われてなかったりします。

もちろん、困った時の神頼みとして、危急的状況で占いが役立つという認識を持っている人もいますが、大勢の人にとっては「所詮は占い」であり、「遊び感覚で」という感じなようです。まあ中には、どこかの占い師さんに言われたことを信じ過ぎて、人生の多くの時間を棒に振ってしまう人もいますが、それもそれでやはり行き過ぎた状態だと言えるでしょうね。

ちなみに、僕の頭(イメージ)の中には、運命学を今多くの人が認識しているような占いとして扱うのではない、別の未来像があります。

それはDNAを読み解いて活用する遺伝子工学的なものに近いですが、いたずらに人為的な操作を加えるというイメージは持ってません。そうではなくて、まずは正確に自分の特質や能力などを見極めることができるようなシステムとして使う、または自分自身に対する自由に検索可能なデータベースとして活用するというイメージです。でも、それをするには、どの占術を用いるにしても、より普遍的な言葉や内容に置き換える必要がありそうですが。

現実問題として、今は開運法と称して何かを買わせたり、特別な行動を要求することがあるそうですけど、そういうのは本筋からズレているのでは、と思っています。日本で有名なのは、風水や奇門遁甲(吉方位)、気学のお水取り、祈祷や護符、宝石・・・といった事柄でしょうか。

そういった方法論も有効かもしれませんが(実際、僕も正統的な風水や奇門遁甲の効用は認めていますが)、問題はイキナリそこに飛びつこうとする人の意識、心にこそあると思っています。目先の利益とか成功を求めて我を見失っていると、後で思わぬツケを払わされることがあることも知っておいてください。

僕は占い師としての経験は乏しいですが、実際に外的な手法で開運できると思い込んでいる人を見るにつけ、内心で「僕はあなたの助けになりたいけれど、本当の意味であなたの救いにはなれません」と言っていました。

だって、真に自分を救うことができるのは、他の誰でもない自分自身なのだから。そこに気がついていない人が、どんな開運法をしてみても一過性のものでしかないし、悪循環という泥沼に嵌ってしまう危険性すらあります。問題の連鎖が自分自身の内側に起因している場合、そこを何とかしない限り、どんな外的なアプローチも効験は期待できないでしょう。

この葛藤が元で、僕は占いの功罪を身をもって知り、一時期、急激に占いに対する関心と興味を失いました。また、今の世の中で占い師として生きることは僕にはできないとも感じました。占い師として生きるのには、僕はあまりにも貧弱だったのです・・・

その後、数年して遣り残したこと(易とサビアンの対応表を完成させること&現代解釈をすること)を完遂しなくては、という想いが出てきたので、今こうして再び易に取り組んでいる状態です。ただし、今度は一介の研究者としてです。単なる趣味人として、といってもいいかもしれません。空白期間を経験したことで幾らか客観的な視点で占いを見ることができるようになったので、ある意味、これは収穫でもありました。

その時その時での辛いことや嬉しいことは、それはそれで価値のあることかもしれません。ですが、一時的な吉凶や可否にとらわれて生き急いだ結果、人として大事なモノをどこかに置き忘れてしまっては元も子もないと、知識としてではなく体験として思うようになりました。

こうした事情から、易の解釈に当たる際も、何が吉で何が凶か、という判断にはこだわらず、そこに流れる意味に着目するようになりました。ハッキリ言って、賢者でもない僕にはそもそも吉凶は判定不能。教科書を踏襲して、さも知ったかのように吉凶悔吝などを説くことは自分を偽る行為でしかありません。

これまでの経験や実占を総合して今の僕が書けるのは、どういった状況となりやすいか、そしてそこに流れるテーマとか意味について、です。

そうした内容以上の高度な領域に関しては、僕はまだ到達してないと思っています。だから、既に書いてきた64卦の解釈にしても、読者には吉凶が明確ではない(→実占的でない)と感じることもあるでしょうし、それはその通りだと認めるほかありません。これは言い訳ですが、そもそも僕の目的は意味や法則を探求することであって、占いそれ自体にあるわけではない、ということも内容に大きく影響しているはずです。

それに関連しますが、正直言って、僕は「占ってください」と言って近づいてくる人を好みません。何か深刻な悩みがあるのならば相談には乗るでしょうが、自分で自分の人生と運命について自問(自省)さえしないで、安易に占いをする人に頼ろうとする方には、「すみませんが、お断りしています」と言うようにしています。

僕の考えでは、運命学は厳然たる自己分析ツールであって、基本的に他の誰かに閲覧させる類のものではないです。非常にプライバシーに関わる繊細な内容を扱っている技術です。もっと柔らかく言い直すと、どの占術を用いるにしても、それはその人の人生を丸裸にする可能性(恐れ)があり、相当に信頼できる人でもなければ気安く「私を占って」などと言えるものではない、ということです。

もちろん、商売として占う場合には相手のプライバシーを尊重し、守秘する義務があります。しかし、そんなことを意に介さないで、相手の都合も構わず振り回すような使い方もできなくはないのです。(仮に占う側が良かれと思ってしていたとしても)

このことは各占術の精度や技術が向上すればするほど、考慮されなくてはなりません。つまり、より運命の軌跡が分かるようになればなるほど、自分の運命=人生を他人任せにはできなくなるだろうからです。誰か他の人(自分よりも読解力のある人)に見てもらうのは、よほどの難事に見舞われた時に留めるべきです。

占いとしての狭い枠が取り外され、普段から自分の運命の根幹に流れるテーマを見つめるようなシステムが構築されれば、自然と自分の人生を自覚的に生きられるようになるのではないかと思います。

スピリチュアルな言い方をすれば、アカシックレコードから自分史を読むような状態。集合意識に関わるものならばまだしも、自分自身のコーデックスはプライバシーに満ちたものです。個人的な楽しみや秘密が込められている場所だからこそ、無闇に合鍵を渡すようなことは避けるべきだと思います。

希望としては、自分の運命は自分自身で読み解く(=自分の人生は自分の意思で生きる)、ということが当たり前にできる世の中になって欲しいです。あたかも、直ぐに医者に頼るのではなく、自分で普段から健康管理をするように。

そんな想いから、僕は占いの技術は”天機”として隠すのではなく、人々に利益をもたらすものとして適切な形を与えられ、広く普及されてしかるべきだと考えています。何も占い師さんを廃業させようと目論んでいるわけではなくて、良心的な占い師こそ運命学の先賢として教師やカウンセラーなどに転業すればいいのではないかと思います。

日々、相談者の悩みや問題に対して冷静な判断を下したり、ポジティブな指針を与えたりする”優れた”(ココが重要!)占い師の精神的な強さや見識の深さは、そんじょそこらの教師かぶれでは太刀打ちできないほどですし、もっとずっと親身になって相手のことを考えていると思うからです。

まあ自分自身に関して言えば、今書いたような資質(器)は持ち合わせていないので、市井の研究者として、自分が得た成果を世間に還元するという方法で役立てたらいいなと考えています。



・・・あまりに取り留めのない、そして歯止めの利きそうにない話になってきたので、ここらでストップを掛けます

要は、「占いの本質は、世間一般に思われているものとはかなり異なっているんだよ」ということが言いたかっただけです。




閑話休題。

一昨日のことですが、実家の庭にセキレイが来ているのを見ました。
(今日まで知らなかったのですが、アニメのタイトルではないですよ。セキレイで検索したら、アニメのサイトばっかりだった

・・・調べた印象ではハクセキレイだと思うのですが、写真を撮らなかったので確認してもらうことはできませんね。残念。

「オンライン 野鳥図鑑 ハクセキレイ」のフォトギャラリーでの一枚目のような感じ。体の上半分が黒で、下半分が白。きれいにストレートに分かれてました。とてもスマートな風貌で、トタタタタッと小走りする様が可愛かったー

ちょうどその時、愛犬にご飯を持っていった時だったのですが、人間が近くに居ても気にせず、辺りの土をひとしきりつついた後、サーッと飛び去っていきました。

うちの庭は兼業農家ということもあって広めで、かつ木々が多いせいか、よくスズメやら鳩やらウグイスなどがやってきます。
木の枝に割いたミカンを刺しておくと食べに飛んでくるので、その様子を観察して楽しんだりする時もあります。

で、おとといは、「見かけない鳥だなー」と思って古い動物図鑑を開いてみると、どうやらセキレイという種類の鳥であること、そして、今は渡りの季節で、水辺の地域を通りながら南下しているのだと知りました。

ただ、相当に古い図鑑なので現在は状況が変わっているのかも。日本地図に南下の経路が描かれているのですが、ちょうど僕の住んでいる地域を通るような格好になっていたので、たぶんセキレイでいいのだろうと勝手に結論付けました。


また、来てくれるかなぁ。



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