みなさん、こんにちは!
金環日食に続いての天文ショー(部分月食・金星の日面通過)が続きましたね。
このところ、太陽の明るさが一段と増したような気がしています。
そして、なんだかキラキラと清々しい空気が一面を包んでいるような感じです。
テレビや広告なんかでは紫外線がどうのこうのと太陽を悪く言うのが目立ちますが、
果たして本当なのかなー、と訝しい思いも湧いてきます。
自分自身のキーコード(「キーコードから導く、あなたへの語録集」参照)の内容から、
今月は“寄り道・回り道”の期間みたいだとは思っていましたが、大体、いまそのようになっています。
もう何ヶ月も何年も前に買ったまま棚に放り込んであった本を読んだり、
あまり研究を進めていなかったことに改めて取り組み出したり・・・
本筋からは少しずれてますが、今まで自分が学んできたことを再確認しているかのようです。
それで、どういう方面に個人的なベクトルが向いている(いた)のか、
後悔や失敗も含めて、何が自分にとって重要なことだったのかを認め、
そして許してあげるというプロセスを辿っているような気がしています。
それで、こういう過程と並行する形で、旧四月に入った頃からか、
「最善を与え、最善を受け取る」という言葉が、僕の心に木霊しています。
そもそも最善とは何か、その定義すらよく分からないまま、なんですけどね。
とはいえ、最善とか最良ということをいつも考えていると、
なんだかハートフルになるような感じがするし、気分の良くなることが多いのです。
でも、そのことにとらわれて無理するのは逆効果ですけど。完璧主義は疲れますよね。
人って、嫌なことや辛いことがあったりで感情的にダウンしている時は、
大体、おんなじような言葉を頭の中で堂々巡りさせてしまいがちですが、
そういう時にも、というか、そういう時こそ、こういう短い言霊的な文言が役立ちます。
どうせグルグルと埒の明かない思考を巡らせるのならば、なるべく害のないものがいい。
害のないものよりもニュートラルなものがいい、ニュートラルなものよりも、より建設的なものがいい。
そんな具合で、人の悪口言ったり、自分を責めたりする時間は早々に切り上げて、
前に書いた「問題はすべて解決される」(※文末の追伸部分)とか、
今回の「最善を与え、最善を受け取る」とかの単純な言葉を反芻していたほうが、ずっといいです。
そういえば、バシャールも、
「状況は問題ではない。私(あなた)の在り方のみが問題なのだ」
(Circumstances don't matter. Only (my) state of being matters.)
というマントラがいいですよ~と、言っています。僕自身の経験上、この言葉は真実です。
<望むリアリティを創り出すマントラ 1/2 バシャール Mantra to create, Bashar>
<望むリアリティを創り出すマントラ 2/2 バシャール Powerful Mantra, Bashar>
<夢をかなえる バシャール to Make your Dreams Come True, Bashar>
一つ一つ、一人ひとりの経験や置かれる状況というものは全て違っていますが、
その根幹、または共通項と言えるようなものがあります。ある種の法則性と言ってもいいかもしれません。
そういう法則性が整理されたものが、易や奇門遁甲、六壬神課のような体系として過去から伝わっており、
僕は、それをまとめるために、どの卦爻も、どの剋応も毛嫌いせずに体験し、データを蓄積してきました。
(六壬についてはソフトは作ってみましたが、あまり深くは研究できていません。今後の課題です。)
例えば、奇門遁甲の場合、八門(休門、生門、傷門、杜門、景門、死門、驚門、開門)がありますが、
多くの人は、休門・生門・開門および景門を選ぶばかりで、他のいわゆる凶門とされる門を忌み嫌います。
しかし八門の真実(というと大げさですが)を知るには、八門全てをバランスよく経験をすることが必要です。
開運という視点では、吉門を得ることは重要なことなのかもしれません。
でも、個人的には本当の開運というのは吉凶両面のバランスを理解することにあるのではないか、と僕は思うのです。
(正確に言えば、吉凶や陰陽という両極を包含した“全体性の一元的理解”という感じかな。
または、二元性に対して、それらを鳥瞰するような“三番目の視点”を獲得すること)
つまり、バシャールが言っているように、吉凶いずれの状況であれ、
そこにある時の自分の状態と、その状況にどう対処するのかという意識的な働き、
そして、成功であれ失敗であれ、そうした経験から得た学びや気づきを今後に携えること、
こういうことが実際には大切なんじゃないか、
――それがこれまでの僕の考え方であったし、今もそう思っています。
もちろん、状況というのは幾つもの影響が複雑に絡み合っているものなので、
もしそこから特定の意義を見出したいのならば、何らかの「抽出」・「分離」できる方法が必要です。
その意味では奇門遁甲は、まさに古代から受け継がれてきた“現象の分析ツール”と言えるものです。
ある状況において、何が干の剋応の意味なのか、何が八門の意味なのか、何が八神の意味なのか、
何が九天星の意味なのか、何が紫白星の意味なのか、何が九宮の意味なのか、
ということが分かれば、それぞれの要素の他の現象との共通項を取り出せるからです。
(逆に言えば、ある現象は他の様々な要因が織物のように「統合」されたものだということです)
しかし、何かを見過ごして現象の意味を一緒くたにすると、そこで誤認が起きてしまいます。
ただ、それは言うほど簡単なことではなく、自分自身もきちんと抽出できていないものも多々あるとは思います。
それでも、努めて個別の意味合いを取り出そうと心がけてきました。
易に関しても同様に、人様の解釈に翻弄されるのではなく、
とにかく自分自身の経験の蓄積と、自分なりの解釈を大事にしてきました。
そうでなければ、今まで研究を続けることも、解釈を書き続けることもできなかったと思います。
確かに、独りよがりで一般の解釈からは違っていると見られる面もありますが、
僕は僕の体験に正直に書くように心がけています。
また、これは中国占術に限らず、占星術や数秘術なんかでもそうだと思っていますが、
自分に当てはまる部分(星座とかアスペクトとか)だけを読むとか、
方位などで、好ましい意味のあるものだけを取るとか、そういうことをするのではなく、
学ぶのならば全体の体系ごと学ぶということをしないと、真の意味での理解もへったくれもありません。
易で、「私、地沢臨は好きです。希望があるから。でも、沢水困は嫌いです。困難だから。」みたいなことを言っていると、
その人は、もうその時点で易の学習はストップしてしまいます。それ以上、先へは進めません。
どんな卦も等価。別に優劣があるわけではないのです。それぞれが状況を構成する要素なのですから。
「人生万事塞翁が馬」(淮南子)の故事じゃないですが、(最近読んだ「鉄拳チンミ Legends 第12巻」にも出てきてた)
本人にとって何かが起きるそのタイミングは完璧であり、呼び寄せたと言っていいほど必然の出来事です。
バシャール風に言えば、それらはどれも必要な経験として自分が創造したもの、
あるいは、自分を含めて関係する人達と共同創造したものだということになるでしょう。
そうした状況をどう捉えるか、それに対する意識・心がけ・考え方・振る舞いこそが、
僕ら人間が本当に学ばなければならないものじゃないかと思います。
ある時点での状況が希望に満ちたものであれ、困難がひしめき合ったものであれ、
どちらにしても、「ベストを尽くす」というのは実のある行為であることには違いありません。
そしてベストを尽くせば、ベストが反射してくる、というのが単純明快な宇宙法則ですから、
お互いに「最善を与え、最善を受け取る」という円循環を至るところで発生させられたら、
どんなにいい世界になるだろう! と、胸がワクワクします。
===追記===
これを書いた後で、改めて上で紹介したバシャールの動画を見ました。
そのパート2の中で、「エコー」という罠について語られています。
何かを変えるということを意識していても、同じような顔して表れる旧来の名残りに引きずられてしまっては、
せっかくの転換も台無しになってしまいます。
自分が変化を受け入れ、それによって状況を変えるということを決めたのならば、
それに従った振る舞いが必要です。
これは奇門遁甲で応期(結果)に結びつける秘訣と言われるもの、そのものだと思います。
目的に沿った行動をする、というよりは、自分自身が決めた定義、そして創造の流れを一貫させ、
その結果を既知のものとして受け入れる(許可する)ようにする、ということです。
そして、いったんその状態を認めたら、もう十分堪能したとばかりに明け渡すようにします。
つまり、一度は自分の中にヴィジョンとしての種を植えておくわけですが、
それができたら今度は、実際の物理的な果報を受け容れるスペースを作るために執着を捨て去ってしまう。
この時に、一切の期待(自分の都合や期限、好みなどの条件)なしに手放してしまうことが大切です。
どういう方法でとか、こういう形でといった希望を添えると、逆に自分に届けられるルートが限定されてしまい、
かえって現実のものとならなくなったり、思っていたような結果にならずにガッカリするはめになります。
それゆえに無条件で自由闊達な創造性を大事にする必要があり、そうであればこそ可能性を狭めずに、
無数のリンクを通して、予めヴィジュアライズした自分につながっていくことになるわけです。
それと、どんな吉方位を取ろうが、「今の自分には、それを受け取る資格や権利はない」と内心で思っていたら、
表面的にはどんなに欲していても、実際にその状態になること、あるいはその状態に“ある”ことは叶わないのです。
結局は、欲しているというその欠乏の状態だけが、これまで同様に連綿と引き継がれていきます。
こうした内容については、この10数年くらいでしょうか、
色々な自己啓発本とかスピリチュアルな方面で言われているので、だんだん知られてきています。
簡単な理屈なので難なくできそうですが、分かっててもできないというのが、これまでの人類でした。
でも、多くの人が、望む状態になれる、その状態で“いる”ことができると信じられれば、
バーっと火が燃え広がるように、誰でも楽にそれができるようになるのかもしれない、って思います。
英語のことわざでは、「見ることは、信じること(Seeing is believing.)」と言われますが、
それをバシャールは、「そうじゃない。“信じることが、見ることだ(Believing is seeing.)”」と言い換えています。
これは、発想の転換の最たるものですね!
マントラというと密教の真言のこととしてしか見ていなかったんですが、なるほど。
記事を拝見して、ここでのマントラとは、「基準点」かなと。
迷って、思考がデフレスパイラルに落ちた時に、「基準点」を思い出して、元の姿勢に戻るというような感じで。
後半の、(「エコー」という罠)は、まだ自分では理解がよく出来ていないので、もう少しよく読んで、もう一度コメントさせてください。
「最善を与え、最善を受け取る」:いい言葉ですね。
>吉凶や陰陽という両極を包含した“全体性の一元的理解”という感じかな。
または、二元性に対して、それらを鳥瞰するような“三番目の視点”を獲得すること
ここの辺りのことも面白いですね。
自分が学ぶべきことが、人生である程度決まってくるとしたら、起こる事象は違っても、自分が得られる(与えられる)経験(感情の動きの総意のようなもの)は、同じことになるのかなと。
人生で経験することが決まっているとすれば、そのタイミングを占いで変更することになるのか、タイミングは同じだけれども、現れる事象が「吉」の形をとって現れたことでも経験する感情が同じになるのか?
(「エコー」という罠)はもう少し考えてから。・・・しつこいコメント多謝。
(「エコー」という罠)の意味を自分なりに理解しました。
自分を望む方向に変えるというよりは、外側を意識して繕っていた自分を脱ぎ捨て、本来の理想としている自分自身であり続けるということかなと。
外側の反応は、その変化に対応しきれないが、自分は自分のままであり続ければ次第に外側も変わる。そのタイムラグに負けないでということと理解しました。
私は、本当の自分なるということ自体に恐れを感じています。外側を変えたくないからなんでしょうね。
また少し考えて見ます。
ありがとうございました。