◆台風19号に関して◆
伊東君に「主将のブログは11日に」と書かれていましたが、皆様ご存知の通り台風19号が襲来してそれどころでは無くなってしまいました。
土曜日には房総が修理から戻り、そのまま上架状態で固縛を行いました。また、Bバースに置いてあったスナイプ2艇と4050も一旦Aバースの高いところに避難。葉山合宿所での対策は先のブログに書かれたとおりです。
結果としては稲毛、葉山、大学に置かれていた艇はいずれも傷ひつなく、難を逃れました。2年前同時期の3809を廃艇にしたH29年台風21号と比較すると、今回は幸いにも満潮時刻が台風の最盛期とずれていたことが挙げられると思います。私も夜中にハーバーのライブカメラを見ていましたが、あと数十センチ潮位が高ければAバースも浸かっていたことでしょう。
今後も、夏・大潮・満潮・南風の4条件が揃って台風がやって来る可能性は否めません。次代で先述の台風を現役で体験したのは大橋君のみになることもあり、今一度対策を確立して行ってほしいところです。
さて、それでは本題の引退ブログです。
◆引退にあたって◆
今年のインカレの結果は既に知られている通りで、近年稀に見る大惨敗でした。レースそのものの反省や部運営の細かな点はミーティングなどで話し合ったのでここでは省きます。2度3度とグダグダ書くことではないでしょう。
私個人として1番反省せねばならないことは、上級生が少ないなりの体制作りが結局出来ていなかったというこです。これまでは3,4年生にはレースメンバーとサポートメンバーが存在しました。レースに向かっていく中で、それぞれのメンバーはそれぞれの仕事に向き合っていく必要があります。しかし、今回は3,4年生の3人全員がレースに出場し、各々の艇は2年生とコンビを組みました。予備艇メンバー以下7名は1,2年生のみという状況です。
私は3年までサポートメンバーで、わからないことがあったら質問し、判断してくれる先輩がいました。おかげでほぼ全て資料など見ずに搭載備品や各手順がソラで言えます。サポートも本来そうやって回るもので、いちいち搭載備品や動きなどにレースメンバーが細かく指示するということはありませんでした。また、下級生への指揮系統も実質的には異なりました。
普段の練習でも、知識がある上級生の目が行き届かずにどうしてもセルフチェックを余儀なくされます。これは上級生も同様です。私自身決して上手くないことは分かっていてもそれを見て指摘してくれる人がいないのです。
詰まるところ、両者の負担を増やしながらパフォーマンス(知識・技術・意識)を低下させる悪循環に陥っていたのです。薄々これに気付いていながらもこれまで通りの体制に甘え、具体的な方策を見い出せずにいました。また4年生に入ってからは長期に渡る地元での公務員系就活や手術&入院などがあり、やりたいことがあってもそもそも部活の場に居られないもどかしい状況でした。
それらを踏まえて今後のヨット部にお願いしたいのは以下4点です。
①あらゆるものを客観データ化し、誰でも相互批判できるようにすること。
②長期目標から長期練習計画、短期目標から短期練習計画を導き出すこと。
③練習の節々で勝つ快感を知ること。
④各職務をマニュアル化し、自己解決できるようにすること。
⑤手が空いたときの次の仕事を常に意識すること。
①②③は主に海上、④⑤は陸上での話です。
もちろん、すぐ簡単にできることではありません。ただ、「楽するために全力を尽くす」と考えてもらいたいのです。これらを要求するのは酷だろうかと考えて躊躇っていましたが、転換期の今ならきっとできると思います。
体育会系部活とサークルの違いは、自ら考えて動く部員によって成り立つということです。決して、練習量が多いとか、徴収金が多いとかではありません 部活は家です。部員が柱となって出来ている家です。決して、出来合いの家の中に部員が入ってくるわけではないのです。これが出来ないといずれ部は消滅します。これは体育会幹部として様々な部の運営状況を聞いて得た結論です。私の任期中も1つの部が体育会から消え、1つの部が崩壊しました。現実に起こりうることなのです。
少々おっかないことを書きましたが、簡単に言ってしまうと
「他人任せにして過ごしていても部活ではメリットはない」ということです。
せっかくなら、自分でやりたいことを部の中でコツコツやっていけば良いのです。部はあくまで部員の集合体なのですから、「部に迷惑をかける」なんて心配は要らないのです。それが私の願いで、叶えられなかったことです。
最後に、ここまで4年間私は多くの方に支えられてヨット部を続け、また形だけでもヨット部を運営させることができました。本当にありがとうございました。
一人一人に対して御礼申し上げようとするとキリがないですし、書き漏らしてしまいそうなのでひとまずこの場ではこれにて代えさせていただきます。改めて直接お会いしたときにじっくりとお話できればと思います。
◆オマケ「逃げ水に追われた者」◆
「こっからは雑談だ。休みたいやつは休んでくれていいぞ。」
ってやつです。ホントは追いコンか部報にでもと思っていましたが、部に対して考えるところある部員に向けて。
前回
私は親がヨットをやっていたという縁から、あまり深くも考えずにヨット部を選びました。サークルの日に一向にチラシを貰えず、自分からブースに取りに行って奥山先輩から話を聞いたのを今でも覚えています。そしてそのまま、1度目の試乗会(BBQ回)で入部したいと伝えたと思います。入学前から入ろうと決めていた模型同好会以外では他に見学にも行かずに。ヨット部を選んで4年間在籍したことに後悔はないですが、サークル選びのここだけは後悔が残りますね。ですので、新歓でも必ず「色んなサークル見てきて、その上でヨット部を選んでね」と新入生に伝えるようにしています。勢いだけで入ると、自分に言い訳できちゃうんですよね。「イメージと違った」と。
そんなこんなでこの年ヨット部に入ったのはディンギー7人とクルーザー3人の計10人。それなりの豊作です。しかして1年後には各班2人ずつに。もっとも、これは先輩方には非はないでしょう。「やっぱりサークルを1から立ち上げても水球をやりたい」と円満退部したN君を除き、同期から見ても変なやつしかいない代でした。
ただ変なやつでも同期は同期で、2ヶ月おきくらいに話せる相手が1人ずつ減っていくのはたいへん心細かったです。オマケに、残った同期は伊東君でした。というのもその頃は二人とも話す相手が違い、伊東はレーメン、自分はサポートという感じで一対一で話したりする機会は陸上ではほぼ皆無でした。夏合宿でスナイプに1年ペアで乗っていた(今考える恐ろしい)ときは完全に主従関係でしたし(笑)。ハイクアウトが辛くて体が起きてくると、「もっと起こせ!」と手で抑えられるんですよね。もう海に落としてやろうかと。今ではいい思い出です。
全日本インカレ後、スナイプ班は解体されて自分は470クルーとして一年目の冬を迎えました。この時既に競い合う同期のクルーもおらず、なんとなく動作はできてもそれ以上のことはできないただの重しとして、漫然と乗っていました。当然楽しいはずもなく、同じ模型同好会兼部のクルーザー班福島といつ辞めるかと何度も冗談混じりに話す日々。二択で選ばれた新歓隊長を務めきったら6,7月あたりで辞めようと思っていました。
が、新歓後に1年生を載せられるスキッパーがいないため「まあどうせ辞めるし…」とスキッパー転向を志願して実際にやってみると、これがなかなかどうして楽しい。まず、クルーの時にスキッパーがどう思って指示を出していたか分かるようになる。なにより、自分の手で自由に船が動くのが楽しい。そして幸いにも私は元クルーとして新入生にクルーワークを教えられたのでここもいい経験になりました。
こうして私はヨット部を続けることにしました。笠倉先輩、田中先輩には無理を言ってこの時スキッパー練に協力していただき、本当にありがとうございました。その後部の状況を鑑みて再び470クルーに戻りましたが、この時学んだことは本当に貴重でした。なにかあった際にどちらもこなせ、またスキッパーとして乗りながらクルーを教えられるというのは大変便利です。是非スキクル交代期間は今後も設けていってほしいと思います。喜んで手伝いに行きますので。
何度か楽しい時期と倦怠期を繰り返し気付けば3年生、副主将とテンダーという肩書付き。全日本が終わって稲毛に帰ると、唐突に主将になっていました。副将の仕事なんて精々保険関係の取りまとめと辻先輩の代わりにたまに会議に出席するくらいで、実質有って無いようなものでして。ポンと手渡された主将の責務はあまりに重く、途方もないものでした。
仕事量は右肩上がり、1日に5,6件ほどメールを返していたときは携帯の電源を切ろうかと思いました。さまざまな仕事の最終決定は自分に回ってきます。また、最後の責任も自分に回ってきます。一時期は生活も荒れ、ヨットにも乗れずに何をやっているのかわからなくなりました。
歴代主将と話すと皆口を揃えて仰るのが、「主将になるとヨット部を辞めようという気持ちは全く無くなるけど、主将は辞めたくなる」というものです。まさにコレ。自分が部の一部になったと自覚するので、辞める辞めないという次元ではなくなるんですよね。ところが、そうではない部員が辞めたりした責任もまた自分にやって来ます。他人から責められるまでもなく、自分でそう認識してしまうのです。これがとにかく辛いのでした。
また、私は1,2,3年と全日本を経験し、逆に言えば関東インカレで敗退するヨット部を知りませんでした。部の状況からして全日本出場は極めて厳しい中、闇雲に辿り着けぬ目標を追うしかありませんでした。むしろ後ろから追われていたという感じです。
結果としては惨憺たるものでした。語るべくもありません。しかし、だからこそ失うものは何もなくなった今、気負うことなく目標を立てていって欲しいと思います。そしてまず、個人個人が達成しなければならない目標を立ててほしい。その総合値が部の目標としてあるべき基準値です。
そして、今の部は主将を支える体制がありません。「引退にあたって」の最後に書いたことと矛盾すると思われるかもしれませんが、ここで伝えたいのはシステム上の話です。簡潔に言うと、「主将が部を辞めたいと言ったときの責任はどこに行くか」です。答えは簡単、「部」です。
もちろんサポート組織としてのほたて会・幹事会はありますが、あくまでも上位組織ではく、「支援していただいている」という関係性です。これはコーチングしてくださる方々も同様であると思います。この手の責任を負うべきではないのです。
であるならば、本来部員1人1人の問題は部の問題であり、部の問題は部員1人1人による改善が必要なのです。これまでは意志の強い主将陣によって何とかなっていましたが、少なくとも私は一杯一杯でした。部として強固になっていくには、文字通り「構成員」として各々が改善意識を持って行ってほしいです。
後半とっ散らかってネガティブなことを書き連ねてしまいましたが、これが今伝えたい全部です。楽しくするのも、辛くするのも、部を動かすのは自分次第なのです。これをしないままでは、結局何も変わらないのです。
自分は4年間ヨット部を続けて反省はあっても後悔は微塵もありません。これは胸を張って言い切れます。ここまで続けさせてくれた多くの方に、改めて感謝いたします。
それではまた練習で会いましょう。
八木隆太郎
伊東君に「主将のブログは11日に」と書かれていましたが、皆様ご存知の通り台風19号が襲来してそれどころでは無くなってしまいました。
土曜日には房総が修理から戻り、そのまま上架状態で固縛を行いました。また、Bバースに置いてあったスナイプ2艇と4050も一旦Aバースの高いところに避難。葉山合宿所での対策は先のブログに書かれたとおりです。
結果としては稲毛、葉山、大学に置かれていた艇はいずれも傷ひつなく、難を逃れました。2年前同時期の3809を廃艇にしたH29年台風21号と比較すると、今回は幸いにも満潮時刻が台風の最盛期とずれていたことが挙げられると思います。私も夜中にハーバーのライブカメラを見ていましたが、あと数十センチ潮位が高ければAバースも浸かっていたことでしょう。
今後も、夏・大潮・満潮・南風の4条件が揃って台風がやって来る可能性は否めません。次代で先述の台風を現役で体験したのは大橋君のみになることもあり、今一度対策を確立して行ってほしいところです。
さて、それでは本題の引退ブログです。
◆引退にあたって◆
今年のインカレの結果は既に知られている通りで、近年稀に見る大惨敗でした。レースそのものの反省や部運営の細かな点はミーティングなどで話し合ったのでここでは省きます。2度3度とグダグダ書くことではないでしょう。
私個人として1番反省せねばならないことは、上級生が少ないなりの体制作りが結局出来ていなかったというこです。これまでは3,4年生にはレースメンバーとサポートメンバーが存在しました。レースに向かっていく中で、それぞれのメンバーはそれぞれの仕事に向き合っていく必要があります。しかし、今回は3,4年生の3人全員がレースに出場し、各々の艇は2年生とコンビを組みました。予備艇メンバー以下7名は1,2年生のみという状況です。
私は3年までサポートメンバーで、わからないことがあったら質問し、判断してくれる先輩がいました。おかげでほぼ全て資料など見ずに搭載備品や各手順がソラで言えます。サポートも本来そうやって回るもので、いちいち搭載備品や動きなどにレースメンバーが細かく指示するということはありませんでした。また、下級生への指揮系統も実質的には異なりました。
普段の練習でも、知識がある上級生の目が行き届かずにどうしてもセルフチェックを余儀なくされます。これは上級生も同様です。私自身決して上手くないことは分かっていてもそれを見て指摘してくれる人がいないのです。
詰まるところ、両者の負担を増やしながらパフォーマンス(知識・技術・意識)を低下させる悪循環に陥っていたのです。薄々これに気付いていながらもこれまで通りの体制に甘え、具体的な方策を見い出せずにいました。また4年生に入ってからは長期に渡る地元での公務員系就活や手術&入院などがあり、やりたいことがあってもそもそも部活の場に居られないもどかしい状況でした。
それらを踏まえて今後のヨット部にお願いしたいのは以下4点です。
①あらゆるものを客観データ化し、誰でも相互批判できるようにすること。
②長期目標から長期練習計画、短期目標から短期練習計画を導き出すこと。
③練習の節々で勝つ快感を知ること。
④各職務をマニュアル化し、自己解決できるようにすること。
⑤手が空いたときの次の仕事を常に意識すること。
①②③は主に海上、④⑤は陸上での話です。
もちろん、すぐ簡単にできることではありません。ただ、「楽するために全力を尽くす」と考えてもらいたいのです。これらを要求するのは酷だろうかと考えて躊躇っていましたが、転換期の今ならきっとできると思います。
体育会系部活とサークルの違いは、自ら考えて動く部員によって成り立つということです。決して、練習量が多いとか、徴収金が多いとかではありません 部活は家です。部員が柱となって出来ている家です。決して、出来合いの家の中に部員が入ってくるわけではないのです。これが出来ないといずれ部は消滅します。これは体育会幹部として様々な部の運営状況を聞いて得た結論です。私の任期中も1つの部が体育会から消え、1つの部が崩壊しました。現実に起こりうることなのです。
少々おっかないことを書きましたが、簡単に言ってしまうと
「他人任せにして過ごしていても部活ではメリットはない」ということです。
せっかくなら、自分でやりたいことを部の中でコツコツやっていけば良いのです。部はあくまで部員の集合体なのですから、「部に迷惑をかける」なんて心配は要らないのです。それが私の願いで、叶えられなかったことです。
最後に、ここまで4年間私は多くの方に支えられてヨット部を続け、また形だけでもヨット部を運営させることができました。本当にありがとうございました。
一人一人に対して御礼申し上げようとするとキリがないですし、書き漏らしてしまいそうなのでひとまずこの場ではこれにて代えさせていただきます。改めて直接お会いしたときにじっくりとお話できればと思います。
◆オマケ「逃げ水に追われた者」◆
「こっからは雑談だ。休みたいやつは休んでくれていいぞ。」
ってやつです。ホントは追いコンか部報にでもと思っていましたが、部に対して考えるところある部員に向けて。
前回
私は親がヨットをやっていたという縁から、あまり深くも考えずにヨット部を選びました。サークルの日に一向にチラシを貰えず、自分からブースに取りに行って奥山先輩から話を聞いたのを今でも覚えています。そしてそのまま、1度目の試乗会(BBQ回)で入部したいと伝えたと思います。入学前から入ろうと決めていた模型同好会以外では他に見学にも行かずに。ヨット部を選んで4年間在籍したことに後悔はないですが、サークル選びのここだけは後悔が残りますね。ですので、新歓でも必ず「色んなサークル見てきて、その上でヨット部を選んでね」と新入生に伝えるようにしています。勢いだけで入ると、自分に言い訳できちゃうんですよね。「イメージと違った」と。
そんなこんなでこの年ヨット部に入ったのはディンギー7人とクルーザー3人の計10人。それなりの豊作です。しかして1年後には各班2人ずつに。もっとも、これは先輩方には非はないでしょう。「やっぱりサークルを1から立ち上げても水球をやりたい」と円満退部したN君を除き、同期から見ても変なやつしかいない代でした。
ただ変なやつでも同期は同期で、2ヶ月おきくらいに話せる相手が1人ずつ減っていくのはたいへん心細かったです。オマケに、残った同期は伊東君でした。というのもその頃は二人とも話す相手が違い、伊東はレーメン、自分はサポートという感じで一対一で話したりする機会は陸上ではほぼ皆無でした。夏合宿でスナイプに1年ペアで乗っていた(今考える恐ろしい)ときは完全に主従関係でしたし(笑)。ハイクアウトが辛くて体が起きてくると、「もっと起こせ!」と手で抑えられるんですよね。もう海に落としてやろうかと。今ではいい思い出です。
全日本インカレ後、スナイプ班は解体されて自分は470クルーとして一年目の冬を迎えました。この時既に競い合う同期のクルーもおらず、なんとなく動作はできてもそれ以上のことはできないただの重しとして、漫然と乗っていました。当然楽しいはずもなく、同じ模型同好会兼部のクルーザー班福島といつ辞めるかと何度も冗談混じりに話す日々。二択で選ばれた新歓隊長を務めきったら6,7月あたりで辞めようと思っていました。
が、新歓後に1年生を載せられるスキッパーがいないため「まあどうせ辞めるし…」とスキッパー転向を志願して実際にやってみると、これがなかなかどうして楽しい。まず、クルーの時にスキッパーがどう思って指示を出していたか分かるようになる。なにより、自分の手で自由に船が動くのが楽しい。そして幸いにも私は元クルーとして新入生にクルーワークを教えられたのでここもいい経験になりました。
こうして私はヨット部を続けることにしました。笠倉先輩、田中先輩には無理を言ってこの時スキッパー練に協力していただき、本当にありがとうございました。その後部の状況を鑑みて再び470クルーに戻りましたが、この時学んだことは本当に貴重でした。なにかあった際にどちらもこなせ、またスキッパーとして乗りながらクルーを教えられるというのは大変便利です。是非スキクル交代期間は今後も設けていってほしいと思います。喜んで手伝いに行きますので。
何度か楽しい時期と倦怠期を繰り返し気付けば3年生、副主将とテンダーという肩書付き。全日本が終わって稲毛に帰ると、唐突に主将になっていました。副将の仕事なんて精々保険関係の取りまとめと辻先輩の代わりにたまに会議に出席するくらいで、実質有って無いようなものでして。ポンと手渡された主将の責務はあまりに重く、途方もないものでした。
仕事量は右肩上がり、1日に5,6件ほどメールを返していたときは携帯の電源を切ろうかと思いました。さまざまな仕事の最終決定は自分に回ってきます。また、最後の責任も自分に回ってきます。一時期は生活も荒れ、ヨットにも乗れずに何をやっているのかわからなくなりました。
歴代主将と話すと皆口を揃えて仰るのが、「主将になるとヨット部を辞めようという気持ちは全く無くなるけど、主将は辞めたくなる」というものです。まさにコレ。自分が部の一部になったと自覚するので、辞める辞めないという次元ではなくなるんですよね。ところが、そうではない部員が辞めたりした責任もまた自分にやって来ます。他人から責められるまでもなく、自分でそう認識してしまうのです。これがとにかく辛いのでした。
また、私は1,2,3年と全日本を経験し、逆に言えば関東インカレで敗退するヨット部を知りませんでした。部の状況からして全日本出場は極めて厳しい中、闇雲に辿り着けぬ目標を追うしかありませんでした。むしろ後ろから追われていたという感じです。
結果としては惨憺たるものでした。語るべくもありません。しかし、だからこそ失うものは何もなくなった今、気負うことなく目標を立てていって欲しいと思います。そしてまず、個人個人が達成しなければならない目標を立ててほしい。その総合値が部の目標としてあるべき基準値です。
そして、今の部は主将を支える体制がありません。「引退にあたって」の最後に書いたことと矛盾すると思われるかもしれませんが、ここで伝えたいのはシステム上の話です。簡潔に言うと、「主将が部を辞めたいと言ったときの責任はどこに行くか」です。答えは簡単、「部」です。
もちろんサポート組織としてのほたて会・幹事会はありますが、あくまでも上位組織ではく、「支援していただいている」という関係性です。これはコーチングしてくださる方々も同様であると思います。この手の責任を負うべきではないのです。
であるならば、本来部員1人1人の問題は部の問題であり、部の問題は部員1人1人による改善が必要なのです。これまでは意志の強い主将陣によって何とかなっていましたが、少なくとも私は一杯一杯でした。部として強固になっていくには、文字通り「構成員」として各々が改善意識を持って行ってほしいです。
後半とっ散らかってネガティブなことを書き連ねてしまいましたが、これが今伝えたい全部です。楽しくするのも、辛くするのも、部を動かすのは自分次第なのです。これをしないままでは、結局何も変わらないのです。
自分は4年間ヨット部を続けて反省はあっても後悔は微塵もありません。これは胸を張って言い切れます。ここまで続けさせてくれた多くの方に、改めて感謝いたします。
それではまた練習で会いましょう。
八木隆太郎