宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

「筑前寶満史料」(その3)

2010-10-31 | 史料
 宝満の廃仏毀釈は随分徹底的に行はれたものらしい。木像や仏具は火をつけて焼いた。太宰府から石工の谷川藤七といふを伴ひ来り、石に刻した梵字などは鑿を以て削り去らしめた。又五百羅漢の如きは、これを谷底に突き落とし、或いはこれを割りなどした。鏡や金仏はこれを地金で博多の金物師磯野に売つた。下宮の祇園社には火をかけた。これは仏像を安置して居たからであらう。此の如く破壊は完全に行はれたが、しかし破壊を行ふ前に、仏像仏具など寄付者の手に返せるものは返した。たとへは、大般若経は四三島の酒屋の寄付であつたから、其処は帰したといふやうに。
 五百羅漢はなるほど首の無いのや、顔面のなくなつたのや、胴が二つに折れたのやが沢山ある。又一の鳥居の傍には一字一石塔もある。これ等は谷川の鑿の見舞を受けて居らぬ。
 本稿は木村卯平氏及び大岡重美氏母堂の談話に負ふ所が多い。

※『福岡県史料叢書』第10号「筑前宝満史料」福岡県庁庶務課別室史料編纂所より

(了)

「筑前寶満史料」(その2)

2010-10-31 | 史料
 元禄十二年綱政の時代に宝満山伏の国中峰入が復興された。それは春三月十五日同行の衆徒引連れ、竈門山より先づ獅子宿にかけ入り、卯月八日に宗像郡孔大寺山をかけ出し竈門山に帰る。其の間粕屋鞍手宗像那珂御笠数郡の内凡二十箇所も経歴して、所々にて修法する。福岡城内にも若一王子社があるから、ここにも衆徒と共に入つて法儀をつとめる。(此事黒田新続家譜所載)
 宝満山の地理的記事は筑前国続風土記附録に詳に記してあるが神仏分離の際建物其の他が破壊され、諸坊の人々も山に残つた者は無い。そこでここに神仏分離の際の事だけを少し述べよう。
 社領五十石。建築は藩主行ひ、二の鳥居の付近には講堂、鐘楼堂、行者堂等があつた。講堂には十一面観音、毘沙門天等、行者堂には役行者の像を安置し、又薬師堂、護摩堂、法華堂、九輪塔等もあつた。明治四年坊廃せらるる際は、坊中二派に分かれ、改革派即ち廃物派は座主楞迦院が首領で、九坊これに属し、守旧派即ち奉仏派は亀石坊等十六坊がこれに属した。然るに県から祝部秀麿が出張し、廃仏毀釈を行ふに及び、奉仏派は之に抵抗することを得ず、破壊せらるるままに任せた。

(つづく)