本日、九州歴史資料館において、科研費基盤研究(B)「日本中世における「山の寺」(山岳宗教都市)の基礎的研究」(URL=http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/yamanotera/index.html 、2008~2011年度、研究代表者=仁木宏)による研究会がおこなわれました。詳細は以下の通り。
基調講演
小田富士雄氏「北部九州の山岳信仰」
報告
大庭康時氏(福岡市教育委員会)「博多と福岡平野周辺の山の寺」
吉良国光氏(大分県立芸術文化短期大学)「中世の脊振山について」
桃崎祐輔氏(福岡大学)「一貴山 夷魏寺」
山村信榮氏(太宰府市教育委員会)「宝満山」
江上智恵氏(久山町教育委員会)「首羅山遺跡」
井形進氏(九州歴史資料館)「薩摩塔について」
宝満山については如法による浄地化後に坊が形成され、その後に山頂経塚が成立して、山頂経塚が眺望のネットワークでつながる、という説がだされました。
質疑の中で注目されたのは、山岸常人先生(建築学)が、宝満山の本谷遺跡群について、基壇裾に対して礎石配置が小さいことから、復元を3間四方にこだわらず、5間まで視野に入れて検討する余地があると発言されたことです。
井形進氏のいわゆる「薩摩塔」の制作年代が久山白山でセットになっている宋風獅子の像様から13世紀以降の所産とされたことが新知見として注目されます。天台の寺内システムが傾いて、所により臨済宗や時宗、真言律宗の連中が山内や周辺に進出し出す時期で、修験道の組織化の胎動期とも考えられ、示唆的な所見でした。