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大南窟
宝満山には古くから「七窟」という言葉があり、
山中には修行に供された石組みの窟とされる箇所が
7箇所以上に存在する。
この大南窟は筑紫野市大石側の大谷尾根道と
通称かもしか新道の間にある。
外観は縦に割れた花崗岩が屹立した形状で、
岩の根元に3畳ほどの室状の空間が開いている。
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現在はこの岩室で峰入りの際の入峰灌頂がおこなわれる
修験道では重要視されている窟であり、
江戸時代の山中での回峰行においても
最南端の修法箇所として位置づけられていた。
現在では「クツ」と呼び習わしているが
江戸の絵画資料では「イハヤ」の注記もあり、
そう読むのが古い呼び方なのかも知れない。
宝満B経塚出土の経筒の銘文には「大南毘沙門堂」
と見られ、「大南」の地名は複数あったのかもしれないが
山中には12世紀以降地名として使用されているらしい。
英彦山にも同名の「大南」窟があり、
こちらは鎌倉期に成立した「彦山流記」にも記載があり
古い名称であることがわかる。
修験道段階以前の天台系山岳寺院であった頃から
この名称で呼ばれていた山中の聖地でったのであろう。
出土遺物はさらい古い。
ここでは奈良時代後期の須恵器、土師器、
製塩土器などが見られる。
宝満での山中祭祀の初期段階において
その使用が始まった古い祭祀場の一つである。
また、屹立する巨石の外観は
沖ノ島祭祀遺跡のそれを強く連想させる。
沖ノ島での祭祀が公的なものから宗像一族の
個的なものに移行していく段階であり、
その後の宝満が国境祭祀に係わった事実から
まさにその繋がりが注目されるスポットといえる。