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本日、太宰府市の中央公民館で初めての宝満山の歴史的な価値に迫るシンポジウムが開催され、約300名の聴衆が聞き入りました。
発掘で明らかになった天台宗の六所宝塔跡や下宮礎石建物、42次調査の礎石建物などの復元想定図などが初めて明らかにされるなど、今まで知られていなかった新たな宝満像が提示された会でした。
現在は神社が守る山ですが、宝満山は奈良時代以来、神道と仏教とが絡み合いながら霊山としての歴史を紡いで来た山であり、忘れ去られた仏教色の要素がいかに濃いものだったかを知ることができました。
宝満山中で野祭祀について、小田富士雄先生は8世紀の初期には国家的な国境祭祀の要素が色濃く、8世紀後半からは仏教色が加わり、平安後期には原始修験の様相が加わると評価され、菅谷文則先生は宝満での祭祀は、出土遺物から古墳時代最末期に遡ると指摘されました。
井形進氏は宝満山の仏教彫刻の遺品が北谷地蔵の10世紀の段階のものから、平安後期頃の神将像、鎌倉期の柚須原観音など、思われていた以上に残されていること、それぞれの像様が近隣の仏像群との共通性を持ち、背景となる工人集団の存在がうかがえるなど、遺跡調査では知りえない情報を提示されました。
(つづく)